土光敏夫氏の長男・陽一郎氏

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 徹底した合理化で企業の再建を果たし、「荒法師」の異名をとった土光敏夫氏。経団連会長、第二次臨時行政調査会長まで務めた土光氏は家庭ではどのような父親だったのか。土光氏は「メザシの土光さん」とも呼ばれたが、それはNHKで土光氏の家庭に入り込んだ際、メザシを食べる姿が映ったことに端を発する。

「親父は若い頃から苦労ばかりした人だった。ぼくは社会に出て働き始めてから、“親父の真似はとてもできないな”と思ったよ」

 こう語るのは、土光敏夫氏の長男で、現在は、敏夫氏の母親が創立して同氏も力を入れた学校法人橘学苑の理事長を務める陽一郎氏。不世出の父親を息子が振り返る。

「親父は戦前、戦中、戦後とずっと忙しくしていた。体を動かすのが好きで、若い頃は留学先のスイスで覚えた山登りやテニスに励み、年を取ると自宅の庭で木刀の素振りをしていた。仕事ばかりでほとんど休みはなかったけど、子供の頃、日光に日帰りの家族旅行をしたことを覚えています。写真好きの親父が家族写真をたくさん撮ったけど、全部戦争で焼けてしまった」(陽一郎氏、以下同)

 会社ではよく怒鳴り、「怒号さん」と呼ばれた敏夫氏だが、自宅では一転して寡黙な父親だったという。

「親父は明治生まれの頑固者だけど、家庭には仕事を持ち込まず、いつも無口で家族を怒ることはなかった。仕事から帰ると洋館の書斎にこもり、ドイツ語や英語の専門書を静かに読んでいました。子供たちの将来についてどうしろという話もなく、ぼくが直接言われたのは、“中学は歩ける距離のところにいけ”ぐらい。言葉ではなく背中で見せるタイプでした」

 石川島重工業の社長時代、敏夫氏は一升瓶をぶら下げて、徹夜で組合員と労使交渉した逸話を持つ。“飲みニケーション”が人心掌握術のひとつだった。

「親父はあまり酒が得意じゃなかったけど、会合では酒を飲んで社員からいろいろと話を聞いていた。ぼくが子供の頃、元旦に会社で飲んでいた親父が仲間を10人くらい自宅に連れてきて、ドンチャン騒ぎしたことを覚えています。会社のある佃島から、わざわざポンポン蒸気船で隅田川を渡ってね。もう80年も前になるんだな」

 偉くなってからも質素な生活を続けていた敏夫氏。土光家の食卓にはやはり「あの魚」が並んだ。

「よく聞かれるけど、たしかにメザシはよく食べていた(笑)。岡山で育った親父は、地元で取れるママカリという魚も好物で、ママカリを入れたちらし鮨を“おいしい、おいしい”と食べていた。ママカリは小さくて安い魚だけどうまかった。暮らしぶりは慎ましく、親父はいつも着物姿で、“面倒くさい”と床屋にも行かず、ぼくが髪の毛を切っていた。禿げていたから割と簡単だったけどね(笑)」

 敏夫氏が生きていれば、今の世に何を思うだろうか。

「世の中が大きく変わったから、今の政治や世相については何も言えない。ただ、世の中が豊かになるに連れ、お金が人を狂わせるようになってしまった。親父は何があっても変わらなかった。極端と言えば極端な人だったけど、私欲のなかった点は認めるわな」

※SAPIO2016年10月号