満州、樺太、朝鮮、台湾からの引き揚げの実態と問題点について、国文学研究資料館の加藤聖文准教授が会見。中国を巡る複雑な国際政治が絡み合う中で、ほぼ1年で引き揚げが完了した要因を明らかにした。

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2016年9月12日、満州、樺太、朝鮮、台湾からの引き揚げの実態と問題点について、国文学研究資料館の加藤聖文准教授が「海外引き揚げ70周年―体験の継承」と題して日本記者クラブで会見した。第2次大戦の敗戦によって海外から国内に引き揚げてきた日本人は300万人超で、引き揚げ時の犠牲者は24万人以上に達する大惨事だったと指摘した。中国を巡る複雑な国際政治が絡み合う中で、ほぼ1年で引き揚げが完了。激化する米ソ冷戦の影響を受け、「米国=善」「ソ連=悪」という単純な構図で理解されるようになったと分析した。その上で「あまりにも単純なアジアを巡る国際政治観は今日にも引き継がれている」と強調した。発言要旨は次の通り。

敗戦によって国内に引き揚げてきた日本人は300万人超。地域別では、中国東北部の旧満州127万人、次いで満州を除いた中国本土約49万人、台湾約33万人、朝鮮半島約72万人(うち北朝鮮約30万人)、樺太(サハリン)約39万人と続く。これに現地の死亡者30万人を加えると約330万人が在住していたことになる。

満州からの引き揚げの際の犠牲者は日ソ戦での死亡者も含めて24万人超。そのうち8万人は一般開拓民で、東京大空襲や広島、長崎の原爆、沖縄戦を上回る惨事だった。同時に「大日本帝国」を構成していた帝国臣民は解体され、日本人と朝鮮人、台湾人は分離された。日本人だけ内向きの世界に回帰した。

1945年8月のポツダム宣言受諾時に、日本政府は輸送船舶の不足や港湾の機雷封鎖、国内での食料不足などを理由に海外残留者の短期間での引き揚げは不可能と判断し、3年以上現地で定着・自活させる方針を打ち出していた。“敗戦慣れ”しておらず、連合国に対する楽観的な観測もあった。

しかし現実は日本政府の連合国への希望的観測を打ち砕いた。
(1)ソ連軍侵攻地域での混乱=ソ連軍の占領政策は日本資産の接収と兵士のシベリア抑留に集中。残留日本人の保護・送還に無関心だった。
(2)中国国民党と共産党の内戦激化=満州への影響力浸透を図る共産党、自力では中国全土に兵力を展開できない国民党の対立が混乱を招いた。
(3)米国は自国兵士の本国送還を優先した。

ところが実際は1946年の1年間で大半が引き揚げることができた。何故か?

終戦直後、約100万の日本陸軍の将兵は中国でほぼ無傷のまま残留していた。米国は中国の国民党と中国共産党の内戦で日本兵が傭兵化することを恐れ、本国送還を急いだのが真相である。その過程で、同時に進められたのが満州残留日本人の送還だった。日本ではマッカーサーの好意と思われているが、米国の対中政策の一環に過ぎなかった。

300万人もの「民族大移動」が記憶から薄れてしまった大きな理由は、長期化し人々の記憶に深く切り刻まれたシベリア抑留と比べて、短期間で引き揚げが終了したことだ。

敗戦によって日本は植民地を強制的に失った。それによって、日本は英仏などが直面した「脱植民地化」という問題に正面から向き合うことがなかった。これが今日の植民地支配をめぐる歴史認識を形づくっている。

大戦後の中国を巡る複雑な国際政治が絡み合う中で、日本人の引き揚げが行われた。しかし、このような複雑な事情はほとんど理解されず、激化する米ソ冷戦の影響を受けて、「米国=善」「ソ連=悪」という単純な構図で理解されるようになった。あまりにも単純なアジアを巡る国際政治観は今日にも引き継がれている。

海外でいきなり祖国から“棄民”された300万人の引き揚げ者は、今日の「難民」である。敗戦時の悲劇的な事件の多くは開拓団に集中し、引き揚げ後の環境は過酷で生活再建も容易ではなかった。

引き揚げ経験者は高齢化し、激減している。「引き揚げ70周年の集い」(国際善隣協会主催、厚生労働省、東京都など後援)が10月20日に東京中央区で開催されるが、前回「60周年」に比べ参加者が大幅に減っている。

海外からの引き揚げは単なる日本人だけの問題ではない。世界史の中で歴史を捉え直し、次の世代がしっかり継承して、考えていくべきである。(八牧浩行)