韓国映画『海峡を越えた野球少年』にみる、日韓高校野球の1982年

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2016年夏から東京のポレポレ東中野を皮切りに、大阪などで順次公開されることになっている韓国のドキュメンタリー映画『海峡を越えた野球少年』。同作は韓国野球の発展に寄与した在日の高校球児たちのドュメンタリーだ。

在日韓国人が韓国野球に大きな影響を及ぼしたのは、1956年に始まる、在日同胞学生野球団の祖国訪問試合であった。

夏の大会で敗れた在日の高校球児たちが集まり、韓国各地で試合をし、日本の先進的な技術を伝えるとともに、高校野球ブームを起こすのに寄与した。この遠征は、1970年代からは、鳳凰大旗争奪全国高校野球大会に参加するという形で、1997年まで続いた。

箕島対明徳の82年春のセンバツ甲子園

映画では、両親が北朝鮮に渡り、政治の狭間で苦しみながらも、1950年、60年の韓国を代表する外野手として活躍した、東京の荏原(現日体大荏原)高校出身の蠔寿讃と、鳳凰大旗の大会で準優勝した1982年のメンバーの話を中心に展開する。

私もこの映画に証言者の1人として出ているほか、拙著『韓国野球の源流』が映画で取り上げられている関係で未完成版から観させていただいたが、貴重な興味深い映像も多く、なかなか見応えがあった。

映画は、在日韓国人を中心に描いているので、当時の日本の高校野球の状況には触れていないが、選手の映像を観ると、当時の状況が思い出されてくる。

1982年の鳳凰大旗の大会で準優勝した在日チームのメンバーには、その年の春のセンバツ大会でベスト8に進んだ、箕島の選手がいた。

センバツで箕島は、1回戦で埼玉の上尾に、2回戦で高知の明徳(現明徳義塾)に勝ち、準々決勝で優勝したPL学園に敗れている。

この時の明徳は、春夏通じて、甲子園初出場であった。夏の甲子園大会が1府県1代表(北海道、東京は2)になり4年、高校野球の勢力図が変わろうとしていた時代である。

原辰徳、荒木大輔と同時代の高校球児たち

在日のチームにはバットをかなり短く持っている選手が多かった。

金属バットが導入されて8年経っていたが、原辰徳がいた東海大相模のように、金属バット導入時からバットを長く持っているチームもあったものの、在日の選手の多くが所属していた関西の伝統校は、バットを短く持って、コツコツというのが、まだ主流であった。

この年夏の甲子園大会で優勝したのは、「やまびこ打線」の池田であった。この池田の優勝を境に、高校野球にも、パワー野球の時代が到来する。したがって、日本の高校球児である、在日の選手たちも、次第にバットを長く持つようになる。

なお、1982年の日本の高校野球、最高のスター選手は、何と言っても早稲田実の荒木大輔であった。

一方の韓国はこの年からプロ野球が始まる。1970年代は爆発的な人気があった韓国の高校野球は、プロ野球の発展とともに、人気が衰えていく。しかし、この年はまだ、人気は高かった。

在日チームが韓国で見たものとは・・・

決勝戦は、超満員の蚕室野球場で行われた。今日LG,斗山の本拠地で、韓国プロ野球の中心地となっている蚕室野球場は、1982年の夏、完成したばかりであった。この年の秋に、ソウルで世界アマチュア野球選手権が開催されるため、それに合わせて、蚕室野球場も完成した。

なお、この世界アマチュア選手権は、後に中日の守護神として活躍する宣銅烈らの活躍で、韓国が優勝している。

蚕室野球場は完成したばかりで、プロ野球のチームはどこも本拠地としていなかったため、この年の鳳凰大旗の大会の決勝戦は、蚕室野球場で開催されたわけだ。そして、今はとても感じることはできない、高校野球に対する熱気が、映像に映し出されている。

在日チームは、決勝では群山商に敗れた。優勝した群山商のエース趙啓顯は、後にヘテ(現KIA)の中心投手として、宣銅烈とともに、ヘテの黄金時代を築くことになる。

映画のメインテーマとは別に、転換期にあった日韓の高校野球の空気を感じることができるのも、この映画の面白さの一つである。高校野球ファン、日韓交流や韓国野球史に興味がある方には強く鑑賞をオススメしたい。
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(文=大島 裕史)

初出:ほぼ週刊 大島裕史のスポーツ&コリアウォチング