『マンガ熱:マンガ家の現場ではなにが起こっているのか』(斎藤宣彦/筑摩書房)

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 最近では歩きスマホの危険性のほうが問題視され、電車の中でスマホやケータイを見ている光景が嘆かわしいというような声は、ようやく聞かれなくなった感がある。その前は小型ゲーム機が、さらに前にはマンガが槍玉に挙げられ、大人が公共の場でマンガを読んでいるなんて、「外国人の目にも触れるのに恥ずかしい」などと云われたものだ。それが今や、マンガは日本の主力コンテンツとなり、そんなマンガが生まれた現場、11人のマンガ家にインタビューした『マンガ熱:マンガ家の現場ではなにが起こっているのか』(斎藤宣彦/筑摩書房)は、著者が「主役の座はもちろんマンガ家とその言葉にある」と述べているものの、マンガに対する著者自身の情熱が伝わってくるかのようだ。

 タイトルに入っている「熱」とは著者によれば、マンガ家のアイデアが作品となっていく時の「生成熱」であり、編集者との「摩擦熱」でもあり、アシスタントによる加熱に、読者が連載の続きを「熱望」するといった、マンガを取り巻くモノを一冊に束ねる造語として「マンガ熱」と呼ぶことにしたという。そして三章構成である本書の第一章「マンガの情熱」には、本人が熱いマンガ家の島本和彦と、熱量を込めた作品を生み出している藤田和日郎のロングインタビューから始まるものだから、冷房の効いた部屋で読んでいても熱い、いや暑い。

 島本の自伝的要素を交えた代表作『アオイホノオ』は、前作の『吼えろペン』が「これが自分の最高傑作だ!」という意気込みで描いたのに当たらず、気落ちしているところへ主人公である炎尾燃の若い頃を描きませんかという依頼があったそうだ。当初は気乗りしなかったようだが、以前にスタッフの一人から「80年代の話ってなかなか聞く機会がないから」聞きたいと言われていたのを思い出し、編集者に「かわいそうなあだち充」というネームが通るならやりますと伝えたらOKが出たのだとか。

 より創作の話に踏み込んだ第二章「マンガの表現」では、『寄生獣』の岩明均と、『鋼の錬金術師』の荒川弘の、作品におけるキャラクターへの態度、あるいは想いの違いが対照的で興味深い。岩明は、キャラクターたちへの愛情は「万遍なくやってる方だと思います」と答え、キャラクターの退場については「物語にとっての最良の形」以外には考えられないと語っている。一方の荒川は、実家が畜産業だということもあってか、家畜とペットでは同じ動物でも死の感覚が違うとして、「気持ちの容れ物」の大きさを例に出し、「家畜に対しては最初から小さく容れ物を決めている」のと同じように、キャラクターに対しても気持ちの容れ物の大きさを変え、「バラバラの方が語りやすい気がしますね」と述べている。

 第三章は「マンガの証言」と題して、ちばてつやに諸星大二郎、大友克洋へのインタビューがあり、だいぶ熱さが和らいでくるのだが、それは御三方の飄々とした受け答えのせいだろう。それぞれの作品を執筆した当時には、衝動にも似た勢いで描いていたことは読んでいて伝わってくるし、上に積み重なっていった数多のマンガ家の作品の下層において今もなお地熱を放つマグマのような伝説的な作品を残したのだと感じ入るばかりだ。

 かつて、マンガが勉強の妨げになると云われていたように、その昔は「小説なんか読んでいると馬鹿になる」と云われていたという話もある。つまりは、その時代を熱くしたモノが目の敵にされてきたのだろう。誰しも熱いモノに触れたら、なにがしかの反応をしてしまうものなんである。「マンガ熱」に触れた今、マンガ家本人によって語られた作品群をまた読み返したくなった。

文=清水銀嶺