大相撲秋場所(9月場所)の新番付が発表されたその日、奇しくも引退会見に臨んだ時天空。その頭には、力士の象徴である"髷(まげ)"はなかった。

 小結まで務めた男の秋場所の番付は、三段目東87枚目。ここまで番付を下げてしまったのは、悪性リンパ腫(※)の治療のため、昨年の九州場所(11月場所)から5番所連続の休場を余儀なくされたからである。
※血液がんのひとつとされる。首や脇の下のリンパ節が腫れたり、体の一部にしこりができたりする症状が出て、体全体の臓器を次第に侵していく病気。

 時天空が右脇腹に異変を感じたのは昨年7月、名古屋場所(7月場所)の頃だった。当初は「あばら骨にヒビがある」と診断されたが、その治療を受けても一向に痛みは治まらなかった。そして、9月の秋場所後に再検査を受けてみると、思わぬ事実が見つかった。

 悪性リンパ腫――力士生命どころか、自らの命をも脅かすほどの病であることが判明したのだ。

「うそだろ? オレが悪性リンパ種なんて......。きっと、何かの間違いなんじゃないか?」

 診断直後、36歳の現役力士は自らが侵された病を受け入れることができなかった――。

 2002年名古屋場所で初土俵を踏んだ時天空。現在の大相撲界は、白鵬、日馬富士、鶴竜の3横綱を筆頭に、20数名のモンゴル人力士が活躍しているが、彼はそうした多くのモンゴル人力士とは異なる経緯で角界入りした。

 時天空は当初、モンゴル・ウランバートルの国立モンゴル農大で柔道に励んでいた。それが2000年、東京農大に転入すると、相撲部に入部したのだ。相撲部ではすぐに頭角を現して、日本国内の大会で活躍。以降、2000年の世界相撲選手権(ブラジル)や、2001年のワールドゲームズ(秋田県)などの国際大会にも参戦し、彼自身、相撲への自信を深めていった。

 ちょうどその頃、少年時代に同じ柔道道場で一緒に稽古に励んでいた朝青龍や朝赤龍らが、大相撲界で活躍していた。その姿を見て、時天空はさらに刺激を受けた。

「オレも力士になって、彼らと同じ土俵で戦いたい!」

 そんな思いを次第に強くしていった彼は、大学に在籍しながら、23歳になる直前に(入門規定は23歳以下)大相撲の門を叩いた。

 角界入り後も時天空は、その実力を遺憾なく発揮。名古屋場所でデビューしたあと、続く秋場所から序ノ口、序二段、三段目で無類の強さを見せ、22連勝という快挙を達成した。2004年春場所(3月場所)に十両昇進を決めると、ふた場所後の名古屋場所では当時史上最速となる所要12場所での新入幕を遂げ、一気に人気力士の仲間入りを果たした。

 最大の武器だったのは、柔道時代から得意としていた二枚蹴り、内掛けなどの足技。そのキレ味は抜群で、新小結に昇進した2007年春場所では、横綱・朝青龍、大関・魁皇、琴欧洲などから白星を挙げる活躍を見せた。近年では、足技にこだわらない押し相撲にも磨きをかけて、2013年名古屋場所では6年ぶりに小結に復帰するなど、30歳を過ぎても安定した力を示していた。

 それだけに、突然の発病を「受け入れられない」のは、当然のことと言えるだろう。

 それでも、「1日でも早く病に打ち勝って、土俵に上がりたい」という時天空本人の強い希望で、再検査のあと、早々に入院して抗がん剤治療を開始した。が、抗がん剤と放射線治療を続けることになれば、髪の毛が抜けることは避けられない。つまり、治療のためには、髷を切る必要があった。

 髷は力士の象徴である。ゆえに、簡単に事を済ませるわけにはいかない。入門から14年、相撲界では異例となる"復活を願っての断髪式"が、入門した当時の師匠(元大関・豊山の元時津風親方)をはじめ、兄弟弟子でもある現師匠の時津風親方(元前頭・時津海)、東農大相撲部総監督の安井和男氏、そして家族ら数人が見守るなか、病室でひっそりと行なわれた。

 美しく、つややかに結われた最後の髷が切り落とされると、その髷はガラスケースの中にそっと納められた。

 それから始まった本格的な治療は、非常に過酷なものだった。特にメンタル面でのダメージが大きく、日々落ち込むことが多くなり、将来への不安に苛(さいな)まれた。そんな状況にあっても、最後は「土俵に復帰するんだ!」という強い気持ちが、時天空をぎりぎりのところで支えていた。

 そうして、いくつかの治療にチャレンジし、徐々に回復の兆しが見られるようになったのは、今春だった。体力面も落ち着いて、体が動かせる状態になると、トレーニングジムに通うようになった。あくまでも現役復帰にこだわり、どんなことがあっても「力士・時天空」であることを諦めるつもりはなかったからだ。

「あばら骨のヒビ」を理由に休場していた時天空が、師匠を通じて本当の病名を公表したのは今年1月のこと。それ以来、同じ病と闘う人たちからの、勇気づけや励ましの声が増えて、時天空にとっては、その温かい声援が大きな支えになっていた。だからこそ、土俵復帰を目指して「そうした人たちの励みになりたい」という気持ちが強かった。

 とはいえ、実戦を離れてから半年以上の入院、治療生活を重ねてきた人間が、そう簡単に力士の体を取り戻せるはずはなかった。治療と同時進行のため、無理するわけにもいかない。思うような体作りができない時天空は苦しんでいた。

 それでも、時天空はトレーニングをやめなかったが、悶々とする日々が続くなかで、次第に彼自身の考えも変化していった。

「現役復帰にこだわることがすべてではない。自分がひとりの社会人として仕事に励み、精一杯生きていく姿を見せることも、彼らの励みになるのではないか......」

 時天空は、引退を決断した。およそ1年前、復活を期して落とした髷が、再び結われることはなくなった。

 重い決断を下したあと、彼は忘れられない一番について振り返った。それは、2003年の初場所(1月場所)、同じ部屋の豊ノ島と三段目優勝をかけて戦った「決定戦」である。

「自分より半年前に入門していた豊ノ島に対して、ずっと『負けたくない』という気持ちでやってきました。だから、あの一番で勝って、彼にやっと追いつけたことがうれしかった」

 当時のことを感慨深く語ると、こらえていた涙が時天空の頬にこぼれ落ちた。

 長く幕内で活躍していた豊ノ島も現在、アキレス腱断裂という大ケガによって療養中の身にあるが、身近にライバルがいたことが、時天空のエネルギーとなり、厳しい相撲界で戦う糧となっていたのだ。

 引退後は、時天空改め、間垣親方となって後進の指導にあたり、秋場所からは相撲協会の仕事もこなしていくことになった。

「悔いを残してしまった分、若い力士たちを指導していくなかで、自分も一緒に成長していけたらいいな、と思っています」

 最後は笑顔でそう語った時天空の、新たな挑戦が始まる。

武田葉月●文 text by Takeda Hazuki