【昭和30年代の奄美】カラーで見る極貧から抜け出した約55年前の日常

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どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は再び鹿児島県のYouTube公式チャンネル内の「なつかしの鹿児島」から奄美大島に関する映像をピックアップしました。

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奄美大島に関しては、これまでも昭和28年時点と昭和30年時点の映像を取り上げてきましたが(いずれもモノクロ)、今回は昭和36年(1961年)制作となり、鮮明なカラー映像です。

野良仕事に出るところでしょうか。のんびりとした日常風景とBGMに流れる奄美島唄に心が洗われます。

昭和28年、30年の記事でも触れていますが、奄美大島は昭和28年まで米軍統治下にあり、沖縄と違い戦略的に重要ではなかったことで、復興も進まず極貧な状態にありました。

こちらでは、女性2人が臼と杵で何かを砕いて粉にしています。

ソテツの実を採っているところのようです。「ソテツの実で飢えをしのいだことも珍しいことではありませんでした」とナレーションが入ります。

ソテツは日本では沖縄や奄美群島などに生育する木で、実をつけますが、飢餓のときにのみ食用にしていたそうなので、美味しいものではないのでしょう。また、乾燥させるなどの加工をしないと有毒なのだそう。いかに米軍統治下時代が酷かったかを物語っています。

こちらは、牛に引かせた動力でサトウキビを絞っています。昭和30年の奄美を捉えた映像では、すでに機械化が進んでいましたが、まだ昔ながらの方法が使われていたようです。お父さんは、この手法で何十年もこなしてきたんでしょうね。

他にも、木製でいつ崩れるかわからないような老朽化した橋があったり、おんぼろな校舎で授業をしている学校があったり、

水道がないためか、暗川(クラゴー)と呼ばれる地下水が湧き出るところまで、一日の大半を費やして汲みに行く女性たちがいたりと、

それもこれも、終戦から日本復帰までの「8年間の空白がもたらした停滞と荒廃」の影響だとナレーションは言います。

それに加え、毎年襲う台風にも耐えながら、島民たちは歯を食いしばって生きてきたのです。

ようやく、昭和28年12月25日に日本に復帰。政府は「奄美群島振興特別措置法」を制定、巨額の費用を投入して復興に乗り出しました。

こちらは、奄美群島第一の都市、名瀬市(現・奄美市名瀬)と名瀬港です。昭和30年の映像では「大型船が着岸できる日も近い」と、浚渫工事(底面をさらい水深を深くすること)の様子を伝えていましたが、昭和36年の映像では完成して大型船が着港しています。

昭和30年の映像にも登場したボンネットバス。のどかな風景ですね。日本復帰以前を紹介した昭和28年の映像では、路線バスはトラックの荷台に乗り込む状態でした。

バスが走っていたのと1本隣の道路は目抜き通りのよう。女性たちが日傘をさして行き交っています。

ここからは、復興によりできた施設が紹介されていきます。まずは鹿児島県立大島病院。同病院のウェブサイトによると、病院自体は明治34年(1901年)からあるそうですが、ナレーションいわく以前は「ひとたび病気になれば十分な治療さえ受けられなかった」状態だったそう。映像に映る病院は、昭和30〜36年にかけての病院整備7ヶ年計画によってできたもののようです。

こちらは奄美大島の南西に位置する徳之島の保健所のようです。幼児が大人たちに囲まれて診察を受けているのが微笑ましいですね。

続いては、以前はおんぼろだった学校施設の復興後のモデルとして、金久中学校が取り上げられています。

女子生徒たちが校庭でフォークダンスを踊っています。生徒に被って見えにくいですが、円の中心では先生がピアノを弾いています。背後に見える円形の校舎は最近取り壊されたようです。女子生徒たちは、昭和30年代の体育の王道スタイル、綿のブラウスに提灯ブルマーを身に着けています。

以前は村と村をつなぐちゃんとした道路はなく、村は孤立した島のようだったのだそうですが、ご覧のとおりしっかりとした道路が完成しています。山がちな奄美にはトンネルも必須です。

映像を見てみると、岩盤を砕いたりする以外はほとんどが、人力で工事がなされています。こちらは測量をしているところです。役者さんのような男前な方ですね。

奄美の開発を拒む存在があるとナレーション。そう、猛毒の持ち主、ハブです。復興事業の一貫として、ハブの天敵とされるイタチが導入されたそうです。ところが、東京大学医科学研究所奄美病害動物研究施設の報告書によると、「昭和30年頃に3000匹近いイタチを奄美大島に話したという記録が残っている。これらのイタチは速い段階で目撃されなくなっている」と、なんと絶滅させられてしまったようです。映像には格闘シーンも収められていますが、イタチは途中で攻撃をやめていますし、その結果も納得できます。

老朽化していた木製の橋も、コンクリートの頑丈なものに架け替えされていきます。

場面は飛んで、馬が草をはむ草原に。と思いきや、飛行場のようです。奄美大島のすぐ東隣に位置する喜界島だそうです。黒糖焼酎のブランドとして名前をご存知の方もいるのではないでしょうか。

喜界島と鹿児島市を結ぶ航空便もでき、わずか1時間半で行けるようになったとのこと。その他、徳之島の港湾工事や島々の干拓工事の様子が紹介されていきます。

続いては、産業・工業について。まずは、奄美を代表する産業である大島紬から。この場面は、染料で染められたの後に行われる「泥染め」の工程です。これを何十回と繰り返してようやく完成となるのだそう。

染め上がった糸を織り込んでいく工程です。なんとも美しい光景ですね。

荷台に人を乗せたトラックの背後に大きな工場が見えます。江戸時代から栽培が続くサトウキビの加工工場のようです。現在も名産の黒糖ではなく、白砂糖を精製しています。サトウキビの絞り汁を煮詰めて結晶を固めたのが黒砂糖で、その結晶を遠心分離器にかけて糖蜜を取り除いたのが白砂糖なので、白砂糖の方が手間がかかります。

奄美にはパパイヤやバナナといった熱帯の果物も豊富にありますが、「産業のニューフェイス」としてパイナップルの栽培も増えてきているそうです。

すでにパイナップルの缶詰工場もできています。剥き残しを手作業で取り除いているところでしょうか。スライスしたものを缶に入れるのも手作業。たくさんの人出が入ります。

将来への期待をかけ、次々とパイナップル畑が開梱されていったそうです。

ところが、大阪府立大学の「奄美大島瀬戸内地域の近現代史資料とその検討(2) : パインアップル缶詰工場の失敗」によると、タイトルでお分かりのように、「1960年7月には、大島パインの缶詰工場も完成した。しかしわずか二夏の後、61年の10月を最後に、工場は操業を停止した。」とあります。61年はこの映像が制作された昭和36年のことです。

工場に売るより、生で本土の市場へ流したほうが高く売れたことによる原料不足や、パイナップルは5年に1度植え替える必要があり、栽培の手間が比較的楽なサトウキビへと農家が切り替えていったことなどがあるようです。

最後は海岸での「八月踊り」の様子を捉えて、映像は終了します。

昭和30年時点から比べて、かなり復興が進んだ奄美の様子、いかがでしたか? 試行錯誤もあった復興劇はもちろん見応えがありましたが、島唄やのんびりとした光景に癒やされる映像でもありました。ちなみに期間限定公開のようなので、映像の視聴はお早めにどうぞ。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

【動画】「奄美 復興の記録(昭和36年制作)」