今や、多くの日本人選手が世界を舞台に戦う時代になった障がい者スポーツ。その活躍の始まりともいえる大会は、今から52年前に遡る。東京で初めて五輪が開催されてから1カ月後、1964年11月8日に代々木の選手村で開幕した東京パラリンピックだ。日本からは、53人の選手が出場した。しかし今とは違い、この大会に出場した日本選手の多くは、日本の障がい者スポーツに尽力した中村裕(ゆたか)医師の患者の人たちだった。

 当時の日本は、脊髄損傷になれば"寝たきりになる"というイメージが定着しており、スポーツはもちろん、仕事に就くこともなかなか考えられない時代。22歳で東京大会に出場した須崎勝己さん(74歳)もまた、中村医師のもとで治療を受ける患者のひとりだった。

 20歳のときに、バイクで事故を起こし脊髄を損傷した。このまま寝たきりになるのか......と思っていた矢先、転機が訪れる。当時の担当医が、脊髄損傷のリハビリなど新しい取り組みをしていた中村医師のいる国立別府病院を紹介してくれたのだ。その転院をきっかけに、須崎さんの人生は大きく変わっていった。
※インタビュアー:伊藤数子氏(NPO法人STAND代表)

伊藤数子氏(以下、伊藤):転院されてすぐにスポーツを始めたんですか?

須崎勝己氏(以下、須崎):そうですね。もちろんパラリンピックの存在も知らなかった頃に、中村先生が訓練士の人たちに、「スポーツをやろう」と言ったんです。でも、パラが決まるまでは、スポーツというよりは、日常生活に必要な筋力をつけるような歩行練習が中心でした。

伊藤:「パラに行くぞ」という話になったときはどう思われましたか?

須崎:「ええ!」と驚きました。人とスポーツするのは楽しいことでしたけれど、私なんかができるんじゃろうかと。患者のなかでも、私はケガをしてから一番日が浅かったので、動けるのか不安でした。

伊藤:東京への移動は何を使ったんですか?

須崎:大分空港から40、50人乗りのプロペラ機で伊丹まで行って、伊丹でちょっと大きい飛行機に乗り換えて行きました。当時は直通がなかったんだと思います。「富士山じゃー!」って、みんな喜んでました。田舎から出たことないですから。羽田に着いてから、高速道路に乗って選手村に向かったんですけど、そのときも病院のテレビで見たことがある海の下を通る高速道路は、「どんな風にして作ったんじゃろ」って話していたのを覚えています。

伊藤:大会では、複数競技に出場されていますね。

須崎:車いすバスケットと平泳ぎ50m、陸上では100mと、丸い的に向けて投げるやり投げに出場しました。ほかにもあったかな? もう忘れてきていますね。

伊藤:水泳の練習をする施設はあったんですか?

須崎:なかったんです。だから、ほとんど練習なしで本番でした。歩行訓練用の温泉で泳いだだけで、それも1週間に1回くらい。プールに入ったのは数えるほどしかありませんでした。

伊藤:不安でしたよね。

須崎:不安でしたけど、泳ぐことはできていました。ただ、東京に着いてから風邪を引いてしまって。体力がなくなっちゃって、水泳はダメかなって思ったけど、出てみろっていうから出たんですけどね(笑)。

伊藤:競技に出ること自体は楽しかったですか?

須崎:はい。出るって決まったら、それなりにやってみようって気持ちになりました。でも無様な負け方をしたし、海外の選手とはやっぱり体力が違いましたね。

伊藤:メダルの数も外国勢とは違いましたものね。

須崎:本当に日本は田舎の運動会みたいでした。当時、評論家の人がうまいことを言っていて、「なかよし運動会」って(笑)

伊藤:アメリカなど海外の選手を見てどう思いました?

須崎:力の差は見た目だけではっきりわかりました。あんなに強くなるもんかなって。訓練するとね。

伊藤:海外の選手は、ずっと練習を積んできて大会に来たんですね。

須崎:この東京パラというタイミングがあったから、日本も環境がよくなったんです。仕事が終わってから練習するようになって。仕事する場所と練習する場所があれば、日本選手でも強くなれるんですよ。

伊藤:そう思います。大会期間中にアメリカやカナダの選手と交流はあったんですか?

須崎:全然。勇気もないし、選手の集会所があったんですけど、そこに行く日本選手は誰もおらんかったですよ。自分もパラに行くまでは病院でずっと寝ている生活だったので、1日中車椅子に乗っていると褥瘡(じょくそう/床ずれ)が気になってしまって、それどころじゃなかったように思います。その頃の車椅子には今みたいなクッションがないですから、円座だったんですよ、ゴムの。

伊藤:海外の選手は道具も違いましたか?

須崎:違ったと思います。車椅子に敷いているのはスポンジでしたし。

伊藤:バスケットボール競技の車椅子も、今とは違うものだったんですね?

須崎:昔は病院にある、後ろに押すところが付いてる車椅子でした。

伊藤:海外の選手の車椅子の形は違ったんですか?

須崎:はい。これは東京パラの前の話なんですけど、イギリスに中村先生と一緒に行った人が、「向こうの車椅子は車輪がハの字になっていた。作り方が雑で、日本のようにピシっと(まっすぐに)なってないんだ」って言うんですよ(笑)。そんな車椅子なんて見たことなかったので、そう思ったんでしょうね。そう考えると、東京パラの前に海外ではもうスポーツ用の車椅子があったってことですよね。

伊藤:試合が終わってから東京観光はされたんですか?

須崎:観光は行かなかったんですけど、一緒に車いすバスケットに出場していた、堤憲蔵さんらと一緒に寄席に行きました。堤さんは社会復帰されていて、慣れているので連れていってくれたんです。そのときのタクシーの運転手さんが車椅子なのに連れてってくれる方でうれしかったのを覚えてます。寄席も一番前の席で見て、たしか落語家は月の家円鏡で、あの頃の新人だったんですよ。すべてが新鮮でした。

伊藤:出場したことで、大会以外でも新しい経験をされたんですね。大会自体にはどんな気持ちで臨んでいたんですか?

須崎:出ると決まってからは、恥をかいたらいけん、やらないけんというのはありました。あとに続く人が行けないような、障がい者の人はダメだって言われたくないっていうのはいつも頭の中にありましたね。

伊藤:当時、出場をお母さまは喜んでいらっしゃいましたか?

須崎:喜んでいたと思います。ケガしたときは家で寝たきりになるんじゃないかって心配していましたからね。

伊藤:パラリンピックが終わってからもスポーツは続けていたんですよね?

須崎:はい。中村先生が始めた『太陽の家』ができて、バスケットチームを作るぞってなって、そこに入れてもらって練習に参加していました。

伊藤:もう1回パラリンピックに行こうとは思わなかったんですか?

須崎:いやー、もう。能力がないなって思ったので......。パラリンピック以降は、スポーツは趣味程度で、仕事を一生懸命がんばっていました。
(つづく)

【プロフィール】
伊藤数子(いとう かずこ)
新潟県出身。NPO法人STANDの代表理事。2020年に向けて始動した「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」では顧問を務めている。現在、パラスポーツの競技大会のインターネット中継はもちろん、パラスポーツの楽しみ方や、魅力を伝えるウェブサイト「挑戦者たち」(http://challengers.tv/)でも編集長として自らの考えや、選手たちの思いを発信している。

text by Sportiva