コンピュータに言葉を教えた女性 グレース・ホッパー
黒澤はゆまの歴史上の女性に学ぶシリーズ、今回はグレース・ホッパーです。コンピュータ言語・COBOLを開発した女性の人生を追います。離婚やうつ、女性の働きづらさに直面しながらも、彼女はいつも「意志を持つこと」を忘れませんでした。
コンピュータに“言葉”を教えた女性
今や私たちの生活に一時も欠かすことのできないコンピュータ。
ふとまわりを見渡しても、パソコンやスマホは言うに及ばす、テレビ、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、目につく家電のほとんどに組み込まれ、自動車や電車、飛行機といった輸送機器の制御にも使われています。
黙々と社会のインフラを支えてくれるだけでなく、時に歌ったり、踊ったり、ゲームの相手になったりしてくれる彼らは私たち人類の最高のパートナー。最近は、ポケモンGOで、新しい友達を作るきっかけを与えてくれたりもしましたね。
しかし、このコンピュータ、草創期は電流のオン・オフしか解さず、パンチペーパーを呑み込んだら、ガタゴト動いて、またパンチペーパーを吐き出す、味も素っ気もないマシンでした。当時は、彼らに何かやってもらおうと思ったら、こんな感じの0と1の羅列を打ち込んで命令する他なかったのです。
00010000 00010000 00000000 00001000
何のことやら全然わからないですね(笑)
しかし、こんな無味乾燥な機械に「言葉」を教え込み、普通の人間でも対話できるようにした、女性がいます。その名はグレース・ホッパー。
彼女こそ、 世界で初めての高水準プログラミング言語であるCOBOLを開発した人なのです。
母から子へと受け継がれた「学問」の意志
1906年、グレース・ブリュースター・マレーとして、ニューヨークで生まれた彼女は小さな頃からとびきり好奇心の強い少女でした。7歳の時には、「中身がどうなってるのか知りたい」と、家の時計すべてを分解しようとしたエピソードが残っています。
面白いのが娘のいたずらに気づいた母親メアリーの対応。
彼女は、頭ごなしに叱るようなことはせず、「調べるのは一個でいいでしょう」と、時計を一つだけ渡して、あとは自由にさせてあげました。
実はメアリーも若い頃数学を志したことがあったのです。しかし、その頃はまだ「女性が数学を専攻してどうするんだ?」という風潮だったため、学問を究めることができず、その悔いがずっと心に残っていたのです。
「娘には自分と同じ口惜しさを味わわせたくない」
メアリ―がホッパーに渡した一つの時計。それは母から娘への激励に他なりませんでした。
母の後押しもあって、ホッパーはすくすくと才能を伸ばしていきました。名門女子大であるヴァッサー大学を卒業後、イェール大学院へと進学。卒業後は母校のヴァッサーで数学の教鞭をとり、1934年には母の夢見た数学の博士号を取得しています。
私生活でも大学在学中にヴィンセント・ホッパーと結婚。彼もニューヨーク大学の教授になりましたから、夫妻ともに学者の、絵に描いたようなエリート夫婦でした。
戦争が始まると、婦人部隊に志願
十分な収入も社会的地位も手に入れて、当時としてはそろそろ人生も黄昏にさしかかる37歳という年齢を迎えた頃、ホッパーはまったく新しい分野にチャレンジしました。
きっかけは第二次世界大戦。
海軍が創設した米国海軍婦人部隊(WAVES)に志願したのです。
前線に行くわけではありませんでしたが、当然、夫も友人も大反対。しかし、ホッパーの考えは、
「港の中の船はそりゃ安全よ。でも、何も生み出さないわ。外海に漕ぎ出し、そして新しいことを始めなきゃ」
というものでした。
海軍ではハーバード大学に配属され、そこで出会ったのが「ハーバード マークI」という超巨大コンピュータでした。総重量は4.5トンを超え、中に5馬力の電子モーターが組み込まれているという怪物。ホッパーはこの新しいおもちゃに夢中になりました。
離婚、そしてコンピュータにのめり込む日々
ただ、ほったらかしにされた夫はたまらなかったようで、1945年にふたりは離婚しています。しかし、その後もホッパーは夫の性を名乗り続けました。
戦争が終わった後もホッパーはハーバードに残り、ますますコンピュータにのめり込んでいきます。この頃、彼女はコンピュータ史に残るあることをしています。停止したマークIを調べて、回路の中に蛾が挟まっているのを見つけると、それを日記に貼りつけ、「実際にバグ(虫)が見つかった最初の例」と書き込んだのです。
プログラムの不具合を「バグ」と呼ぶ慣例は以前からあったようですが、茶目っけのある彼女がこのエピソードを好んで話したため、「バグ」とか「デバッグ」という言葉が業界を超えて定着しました。彼女の日記は現在、スミソニアン博物館に保存されています。
アルコール中毒とうつに苦しんで
ただ、エンジニアとしては順調に歩んだ彼女ですが、当時のハーバードは保守的で女性のキャリアアップにはガラスの天井がありました。
不満を抱いて、民間会社に移った彼女は、1946年の冬の凍てつくように寒いある日、目覚めると自分が警察署にいることに気づきます。ストレスからアルコール中毒を患うようになった彼女は、深夜の3時に酔いつぶれ、警察に逮捕されていたのです。幸い、命は取り留めましたが、キャリアと友人関係を台なしにしかねない行為でした。
その後、うつも併発した彼女は、川に身を投げようとするなど、一時は大変危険な状態にありました。
COBOLの開発に成功
しかし、生粋の科学者だった彼女にとって何よりの薬はコンピュータの開発に打ち込むことでした。理解ある新しい職場で、アルコール中毒とうつから復帰すると、彼女は男性のエンジニアがそれまで気づかなかったコンピュータのある問題に取り組み始めます。
「機械語を使っている限り、特殊な訓練を受けた人間しかコンピュータを扱えない。もっとわかりやすい、人の言葉に近い言語が必要だわ」
しかし、彼女の考えは男性の同僚から冷笑を受けます。
彼女は当時のことを振り返って、こう語りました。
「私がコンパイラ*を走らせている間、誰も関わろうとはしなかった。皆、コンピュータは計算だけすればいいと思い込んでいたのね」
*プログラミングに用いられるプログラムの一種。人間にわかる形で書かれたプログラムを機械コードに翻訳する。
しかし、57年に彼女が英語を使ったプログラミング言語「FLOW-MATIC」を世界で初めて開発すると、国防総省がこれをさらに発展させるよう要請。
彼女もがむしゃらになって改良に努めます。
すでに年齢は50歳を超えていましたが、いかつい筐体に向き合い、無我夢中でキーボードを叩き、出力されるパンチカードを確認する彼女の心は、母親の温かいまなざしのもと、時計を分解して、時計のいや世界の秘密を知ろうとした7歳の頃に戻っていました。
そして59年、ついにCOBOLは完成します。COBOLは誰でも読める言語になっており、特に事務システムで使用されることを想定していました。
そして、その理念通り、COBOLは世界中の企業や政府機関で使われるようになり、いまだにJAVAなどと並んで世界の主要なプログラミング言語の一角を占めています。読者のみなさんも、ATMで銀行のシステムを使う時などに、知らず知らずのうちに、ホッパーのCOBOLの恩恵を受けているはずです。
その後、ホッパーは海軍で准将の地位まで登りつめ、1992年に85歳で亡くなりました。作家のジェイ・エリオットはこんな言葉を彼女に捧げています。
「彼女の見かけは海軍軍人のようだったが、中身はまさにこの世から消え去ろうとしている最後の自由な海賊だった」
ホッパーが残した名言
「自分の意志を持つこと」
そう願って戦った歴史上の魔女、いや女神たちを追ったこの連載も今回が最終回。
名残惜しいですが、またどこかでお会いできることを願いながら、最後にグレース・ホッパーが若い人を激励する時に必ず口にした名言をご紹介します。
「よい考えならさっさとやりなさい。前もって許しを得るより、後で謝った方がずっと手っ取り早いんだから」
参考文献:『Grace Hopper and the Invention of the Information Age (Lemelson Center Studies in Invention and Innovation series Book 4) (English Edition)』(Kurt W. Beyer 著)/『アメリカのめっちゃスゴい女性たち』(町山智浩著、マガジンハウス)/『AMAZING WOMEN IN HISTORY』(KeriLynn Engel著、http://www.amazingwomeninhistory.com/amazing-grace-hopper-computer-programmer/)
*引用部分の表記などは、編集部で一部変更を加えています。
(黒澤はゆま)