『マドモアゼルSの恋文 1928-1930』(ジャン=イブ・ベルトー:著、齋藤可津子:訳/飛鳥新社)

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 これは約100年前のパリを生きた、とあるパリジェンヌの愛の記録である。彼女の名はシモーヌ。おそらく上流階級の出身で、当時は独身。オフィスに勤める職業婦人だった。彼女の素性において、分かっていることはそれだけだ。

 1928年6月14日、シモーヌはシャルルという男性と知り合い、やがて恋に落ちた。シャルルはすでに結婚していたからから、不倫の関係である。その後1930年に2人の仲が破局を迎えるまで、彼らは密かな逢瀬(そして大胆な情事)を重ねることになる。

 こう書くと一見恋愛小説のあらすじのようかもしれない。しかし、ここに紡がれた物語は決して創作ではない。すべて実話である。本書『マドモアゼルSの恋文 1928-1930』(ジャン=イブ・ベルトー:著、齋藤可津子:訳/飛鳥新社)の面白いところはその一点にある。

 今は亡き、無名の一般女性の恋愛。それが後世の人々に知られることになったのは、編者ジャン=イブ・ベルトーの並々ならぬ熱意があったからに他ならない。ある日、アパルトマンを引き払う女友達を手伝って地下室の整理をしていた彼は、厳重に隠された古い鞄を発見する。鞄の中身は、すべて、ある女性(シモーヌ)が愛人にあてて送った恋文だった。興味を惹かれた彼は、女友達から手紙をすべて買い取り、編集作業に没頭する。その結果成立したのが本書なのだ。つまり私たち読者(編者も)は、人様の極めてプライベートな手紙を盗み読みしていることになる。プライバシーを考慮して人名や地名は仮名にしてあるというが、それでも罪深い試みであることに変わりはない。しかしその後ろめたさが、本書をいっそう魅力的にしているのもまた事実である。手紙の執筆者であるシモーヌには申し訳ない気持ちになるけれど……。

 だって、本書に収録されているのは普通の恋文ではないのだ。これも2人のプレイの一環か?と思わせるような、きわどい表現と内容の連続である。詳細な性行為の描写。性器をそのものズバリの名で書いてしまう大胆さ。そんな現代のポルノグラフィー顔負けの文章を、我々は目にすることになるのだ。ベースとなる文体が端整なだけに、その間に挟まれる性的な語彙の破壊力たるや凄まじい。自主規制により、ここで具体例を紹介できないのが残念である。

 出身階層にふさわしく、上品な教育を受けたであろうシモーヌが、このようなエロティックな文章を書く能力を得たのは、必然的なことだったと思われる。彼女はシャルルのことを真剣に愛していたが、彼にはすでに妻がいた。2人の恋愛関係の基盤は極めて脆い。現にシモーヌ自身、たびたび彼の妻に対する嫉妬を覚えているし、同時に、ふとしたことがきっかけで「2人の関係が簡単に終わってしまうのではないか」という不安にさいなまれている。そんな不安定な2人を結びつけてくれる唯一の絆が、セックスの喜びを共有することだった。シャルルがシモーヌに求めたのは、妻には要求できないような、自分の性的なファンタジーを具現化してくれること。彼を愛するシモーヌはそれによく応えた。それだけにとどまらず、シモーヌは積極的に性の冒険に乗り出していく。シャルルと他の人には到底話すことのできないような秘密を分かち合い、2人の絆をより強固なものにするために。その点で、挑発的な文章を書き、相手とのやりとりを愉しむことは、シモーヌにとっては実際の行為と同じか、それ以上の意味を持っていたと考えられるのだ。

 最初はシャルルに従順だったシモーヌだが、関係の進行にしたがって、セックスの主導権を握るようになり、それに伴って手紙の筆致もよりきわどく、かつ饒舌なものになっていく。また彼女の想像力に牽引されて、実際の行為もジェンダーの垣根すら越えた過激なものになっていく。ただ、彼女が本質的に望んでいること――お互いの性的な願望を満足させることで、確かな愛を得ようとすること――は一貫して変わらない。確かにこれは内容のエロティックさが目を引く書簡ではあるけれど、そこから窺えるシモーヌの人柄はあくまで真剣で、ひたむきだ。好奇心に駆られて読み始めたはずが、いつのまにか彼女に感情移入している自分に気がつくだろう。内容の衝撃度、そしてヒロインの純粋さ。さまざまな角度から読み手の心を揺さぶる1冊である。

文=遠野莉子