31日、中国の留学情報サイトに、中国を訪れた日本人女性の世話をした時のことについてつづった体験談が掲載された。資料写真。

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2016年8月31日、中国の留学情報サイトに、中国を訪れた日本人女性の世話をした時のことについてつづった体験談が掲載された。

2001年の春節が過ぎたころ、日本に留学していたクラスメートから電話がかかってきた。話を聞くと、「中国に着いたばかりの日本人の友人の面倒を見てやってほしい」とのことだった。その日本人は、簡単な中国語しかわからないにもかかわらず、しばらく中国にとどまらなければならないという。

そこで、私ともう一人のクラスメートは教えられた住所を頼りに、小さなホテルの部屋に向かった。電話ではその日本人について、女性で40歳前後、離婚したばかりで、経済的に豊かではない、中国での仕事を希望している、といった話を聞いていた。ホテルのフロントから内線をかけると、しばらくして女性が現れた。私たちの想像よりもずっと若く、30歳前後に見えた。深くお辞儀をしたその礼儀正しさが印象的だった。言葉でのコミュニケーションは難しかったが、メモを使って何とか彼女の欲するところを理解した。

彼女は井山さんといった。見知らぬ土地で生活するとは、よほどの事情があったのだろうと感じた。ただ、どうやって生計を立てるか、当てはまったくなかった。彼女の水を飲む所作からその教養の高さが感じられたが、それがこの先の生活がまったく決まっていないということと、鮮明なコントラストを形作っていた。ただ、目の奥に見えた意思は固かった。

私たちは彼女に食事をごちそうした。そしてその間に、現金を両替する、携帯電話を購入する、部屋を借りる、日本語教師の職を探す、という4つの共通認識に至った。4つ目は難題だった。それからしばらくの間、私は彼女に付き添ってあちこちの日本語学校を片っ端から当たった。当時の情報源と言えば、企業情報誌や新聞しかなかった。そしてようやく、試用期間を設けて雇ってくれる学校が見つかった。給料は高くはなかったが、彼女からはやる気が伝わってきた。彼女は、これが初めての仕事だとメモにつづった。これまで、両親や夫に養ってもらいながら大きな家に住み、高級車を運転していたという。あまりにかけ離れた現状だが、彼女からは新しい生活への強烈な渇望を感じた。

それから2年後。忙しさに、私は人生において最も印象深かった日本人女性である彼女のことを徐々に忘れかかっていた。そんな時に突然電話が鳴った。電話口の女性の声を聞いて、私はまた彼女のことを思い出した。とても流ちょうな中国語に違和感を覚えたが、彼女は何度も礼を言い、まもなく帰国するので食事をごちそうしたいとのことだった。実際に会うと、彼女の“中国化”したいで立ちに見違えてしまった。しかし、強い意志を宿したその目つきは当時のままだった。

食事には、彼女があちこちの学校で知り合った友人たちも同席していた。話を聞くと、彼女は一人ひとりの学生に合った宿題や問題を個別に作成していたという。それもほぼ毎日、朝8時から深夜までで、休むことはほとんどなかったそうだ。それに、時間ができれば中国語の勉強をしていたという。彼女の給料は当時の何倍にも跳ね上がり、さまざまな学校から引く手あまたになったが、それでも学生一人ひとりと向き合い続けた。彼女は出会った時のように礼儀正しく、水のように落ち着いていたが、そこに言い知れぬ自信のようなものが備わった感じがした。

帰国後、彼女から安着を知らせる手紙が送られてきた。SARSが流行した時には、当時の感謝をつづった手紙と共にたくさんのマスクが送られてきた。中国ではマスクが品薄になっているというニュースを見たのだという。手紙を読み終えると、何とも言えない感動を覚えた。私は確かに、彼女が中国に来たばかりの時に世話をしたが、私も彼女から多くを学んだ。それは、未知のものに対して恐れない勇気、強靭(きょうじん)な努力、親しみやすい応対、相手を思いやる心の広さと優しさである。(翻訳・編集/北田)