絶体絶命の窮地に立った川口は、立て続けにPKをストップ。勝利を手繰り寄せた。(C)SOCCER DIGEST

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 川口能活、41歳。彼のサッカー人生は、言い換えれば、日本代表の“世界挑戦”の歴史と重ね合わせることができる。絶対に負けられない戦いのなかで、彼はどんなことを考えていたのか。「川口能活クロニクル」と題した、日本サッカー界のレジェンドが振り返る名勝負の知られざる舞台裏--。
 
第3回:2004年アジアカップ 準々決勝
    日本代表 vs ヨルダン代表

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 夏が来るたび、思い出されるゲームがふたつあります。ひとつは前回に紹介したマイアミの奇跡(1996年アトランタ五輪のブラジル戦)。そしてもうひとつが、今回紹介する2004年アジアカップのヨルダン戦です。
 
 あの大会は、僕のサッカー人生における最大のターニングポイントでした。
 
 ジーコジャパン発足当初から、このチームの正GKを務めていたのはナラ(楢崎正剛)でしたが、そのナラが大会2か月前に怪我をしました。6月9日のワールドカップ1次予選のインド戦(7-0)、7月のキリンカップのスロバキア戦(3-1)、セルビア・モンテネグロ戦(1-0)では、ナラの代わりとして、僕がピッチに立ちました。

 そして7月20日からアジアカップ中国大会が始まる直前に、ちょうどナラが怪我から復帰してきたのです。当然、僕はまたサブに回るだろうと思って、紅白戦でサブチームのゴールマウスへと走っていったのですが、そこでジーコ監督から声をかけられ、「川口、向こうへ入れ!」とレギュラー組に入ることを指示されたのです。
 
 1998年のフランス・ワールドカップではピッチに立つことができましたが、2002年の日韓ワールドカップではナラに正GKの座を奪われました。そしてその流れのまま、ジーコジャパンになってからも、その立場はずっと変わりませんでしたが、いつかレギュラーになれるチャンスが来ることを願って、ただひたすら努力を重ねてきました。このアジアカップという舞台は、僕にとって、ようやく巡ってきたチャンスだったのです。
 
 日本にとって2連覇のかかったアジアカップ。ジーコ監督も絶対にタイトルを掴むと意気込んでいましたから、僕自身も、ジーコ監督からもらったこのチャンスを絶対にモノにしたい、アジアカップをモノにしなければ僕の日本代表での未来はない、と思っていました。
 
 ただ、久しぶりに大舞台でプレーできる喜びもありましたから、不思議なことに、それほど力みはありませんでした。代表でプレーできる喜び。そして代表でプレーできるラストチャンス。このふたつの緊張感とともに、自然体で大会に臨むことができました。
 蒸し風呂のような暑さ、地元の大ブーイング……。あれほど劣悪な状況でプレーした経験はありませんでした。初戦のオマーンから、お客さんのほとんどが相手チームを応援していましたし、ブーイングがあまりにもひどすぎて、日本の国家も聞き取れないほどの状況でした。
 
 それに加えて、日本もチームとして決して良いパフォーマンスを見せることができませんでした。(中村)俊輔以外の海外組(中田英寿、高原直泰、稲本潤一)を欠いていた影響があったのかもしれませんが、初戦のオマーン戦(1-0)をはじめ、ずっと苦しい戦いを強いられていました。
 
 その一方で、僕のコンディションは悪くありませんでした。GKにとって楽な試合は一度もありませんでしたが、闘争本能が磨かれていったのか、試合を追うごとに自分のパフォーマンスは逆に上がっていっていくのが分かりました。
 
 そうしたなか、チームはどうにかグループリーグを首位通過しました。そして迎えた準々決勝のヨルダン戦は、この大会のハイライトとなったゲームでした。