フランス文学者・鹿島茂氏

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 日本ではポルノ文学が独自の進化を遂げてきた。フランス文学者・鹿島茂氏は、「世界の文学者も日本の官能小説には一目置く」と語る。豊穣な「性表現」の世界に、鹿島氏とともに分け入った。

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 なぜ多くの作家たちが“性”の表現に取り組んできたのか? そこには言葉というものの限界に挑まんとする彼らの思いがあったように感じる。

 言葉とは、多くの人々の間で共有されているものだ。だからこそ文章を書くことは、自分自身の感情や思想を、手垢のついた借り物にのせて発信しなければならないというジレンマが付きまとう。しかも言葉とは、音声が伴っていないと、現実へと働きかける強さがさらに弱まってしまう。それがポルノであれば、文章が現実へと強く働きうる。ショックを与え、生身の身体を揺さぶることができる。作家たちは、そんな希望を抱えて、言葉というものの限界に、抵抗しようとしたのだろう。

 ポルノは文化の指標である。文明が発展して、セックスが単なる生殖や本能充足のためのものに終わらず、想像力がまじりこむようになって初めて、各種の変態が現れる。私はこの現象を「衣食足りて、変態を知る」と呼んでいる。

 日本のポルノ文学の特徴は、マゾヒズムの異常な発展である。その理由として、ヨーロッパでは「自由の行使」に快楽を感じる一方、日本では「自由の拘束」に強い快楽を感じることが挙げられる。日本は家制度など権威主義的な繋がりを重視する社会の中で、「自由を求めているようで実は求めていない。拘束されることが喜び」という逆説的な悦びを発明したのだ。

 ポルノはその時代の人間の夢想を代行する、一種の代行業であるだけに当時の世相と密接に結びついている。私が「ヅロウスの法則」と命名する法則がある。世代によって「パンティ」では発情しない。「ズロース」でもダメ。絶対に「ヅロウス」でなければダメというのである。言葉によって喚起されるエロティシズムは、読者が身を置く時代、環境に左右される。だからこそ万人を納得させるポルノ文学というものは存在しない。

 何にエロティシズムを感じるかは時代や個人で大いに異なる。ちなみに私にとって初めてのポルノは辞書だった。性に関わるいろいろな言葉を引いて、それで発情していたというわけである。

【PROFILE】かしましげる/1949年、横浜生まれ。東京大学大学院博士課程修了。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、1996年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。古書コレクターとしても知られる。

※SAPIO2016年9月号