農テラス代表(益城町在住) 山下弘幸さん(47)/「ドンと下から突き上げられた瞬間、本当にゴジラが現れたと思いました」。益城の町中は、いまだ倒壊した多くの住宅が手つかずのまま(撮影/編集部・野村昌二)

写真拡大

 熊本を襲った大地震から約4カ月。被災地にはいまだ震災の爪痕が残る。目に見える被害だけでなく、仕事の不安やメンタル面、家族関係など、どう日常を取り戻したのか。

*  *  *
 先が見えないとはこういうことか……。

 熊本地震の震源地となった熊本県益城(ましき)町の自宅アパートで被災した山下弘幸さん(47)は、被災してから自宅に戻るまでの2週間を振り返る。

 震度7の「前震」が襲った4月14日午後9時26分、自宅アパートで、テレビを見ながら焼酎を飲みくつろいでいた。妻(43)と長女(19)と次女(17)の家族4人、全員1階にいた。地震だとわかると、子どもたちを守るため妻と一緒に娘たちの上に必死に覆いかぶさった。そこにタンスなど家財道具が倒れてきて下敷きになった。何とか全員抜け出したが、娘たちはパニックになり、妻は倒れたタンスで負傷し血だらけに。室内は危険と判断し、スマートフォンの明かりを頼りに外に飛び出し、車で10分ほどの実家に避難した。

●気分を紛らわしたFB

「その日の深夜12時ごろだったと思います。熊本市上空を何機ものヘリコプターが飛び交いサーチライトで市内を照らす光景を見た時、初めて『被災したんだ』と思い、呆然としました」

 益城町の代々の農家に生まれ、2012年に全国でも珍しい農業参入のコンサルティング会社「農テラス」を設立すると、仕事は順調に伸びた。

 それが、明日からの暮らしが何も想像できなくなった。さらにそこに16日未明、今度は、実家で寝ているところを震度7の「本震」に襲われる。

「まさか私の住む町にこんな激震が、しかも、2回続けてなんて夢にも思っていませんでした」

 車中泊を余儀なくされたが、車の中は、狭く、暑苦しい。風呂やトイレの水がない不便さ……。つらかったことは山ほどあったが、もっとも大変だったのは「プライバシーがないこと」だったかもしれないと話す。

「私にとって日常とは自分のペースを維持できること。震災前は、家族といっても娘も大きくなり、それぞれのペースで過ごしていました。それが一転、24時間一緒。集団生活を強いられ、プライバシーはなく、自分勝手な行動なんて許されない。こんな暮らしがいつまで続くのかと、ストレスでイライラしながら渋滞の道を運転する気持ちで過ごしていました」

 時間の経過がとてつもなく長く感じた。助け合うはずの妻とも、四六時中一緒にいることで小さなことに不満が。気分を紛らわすのに役立ったのが、フェイスブック(FB)。「死ぬかと思った」「道がぼこぼこでさあ」……。そんな言葉を投稿しても、「友だち」からは「大丈夫?」といった程度のコメントしか返ってこない。それでも、

「聞いてもらえるだけで癒やされました」

●不遇嘆くより前向き

 仕事には影響が出た。熊本県内のクライアント先も何社か被災し、業務は中止に。だが、仕事の大変さは、妻や娘には言わなかった。来春、次女が東京の私立の大学に進学するが、親の大変さを知れば、娘が進路を迷ったかもしれない。

「震災を理由に、娘に夢をあきらめさせたくありません。これは、どの親も考えるはずです」

 自宅は幸い「一部損壊」。震災から2週間ほどで、自宅に戻ることができた。家族4人で食卓を囲んだ瞬間は、感慨深かったという。

「家族で揃って家で食事する時は格別。焼酎も進みます(笑)」

 山下さん自身、今回の地震で死んでいてもおかしくなかったと思っている。益城町だけでも約20人が亡くなった。

「生きているだけで幸せです」

 自宅の家財道具を一新せざるを得なかったが、「新たな生活を始める良いきっかけづくりになった」と考える。不遇を嘆くより、前向きに生きていこうと決めている。(編集部・野村昌二)

AERA 2016年9月5日号