シンシナティ・マスターズの大会会場を訪れたとき、彼は葛藤のなかにいた。

「絶対に無理はできない。USオープンに、ピークをどうしても持っていきたい」との思い。同時に、「ここで1000点を獲りにいくべきか」との逡巡もあった。前週のリオデジャネイロ五輪でいいテニスをしていただけに、それを生かしたいという願いもある。だが、2週間後に控える全米オープンに向け、最大の優先事項が「ケガをしないこと」なのは、間違いなかった。

 その迷いを抱えたままでのシンシナティでの戦いで、錦織圭は3回戦でバーナード・トミック(オーストラリア)に6−7、6−7で敗れる。

「こんなに身体が言うことを聞かないのは久しぶり」

 試合から約1時間後に会見室に現れた彼は、椅子に座ったまま足をストレッチするなど、疲労の色は隠せぬ様子。だが同時に、表情にはある種の安堵感をも漂わせていた。

「疲労だけで、ケガにつながるような痛みはない。そこは安心して、USオープンに臨めると思います」

 3週間前のトロント・マスターズでは決勝に進み、リオ五輪でも銅メダルを獲得。その後、移動日も含め中2日で挑んだシンシナティ・マスターズでは、1勝を含む2試合を戦い切った。「ここでポイントを獲れなかったもったいなさもある」との悔いを覚えながらも、最小限のダメージで8月29日開幕の全米オープンを迎えられることに、胸をなで下ろしているようであった。

 4週間の戦いで得た9つの勝利と、喫した3つの敗北――。

 それら濃密なる結果は、錦織にさらなる高みへ行くための足がかりと、より上に行く過程でぶち当たる障壁の輪郭を、改めて明瞭に浮かび上がらせた。

 かけがえのない収穫は、約2年ぶりに手にした「トップ5からの勝利」である。トロントの準決勝では、当時5位のスタン・ワウリンカ(スイス/現在3位)を7−6、6−1で撃破。第1セットでは逆転で奪う勝負強さ、そして、第2セットでは相手の落胆を見逃さずに突き放す爆発力の双方を見せつけての快勝であった。

 さらにリオ五輪では、銅メダルをかけた3位決定戦で世界5位のラファエル・ナダル(スペイン)を破る。勝利を目前にしながら追いつかれるも、その苦境から立て直して掴んだ勝利。それは本人をして、「気持ちをすごい奮い立たせて、最後はがんばった」と評する、強靭な心身の証明でもあった。

 だが同時に、トロント・マスターズ決勝でノバク・ジョコビッチ(セルビア)に、オリンピック準決勝ではアンディ・マリー(イギリス)に屈した事実が、錦織の心に悔いと頂点への距離感を植えつけ、マスターズ準優勝や五輪銅メダルの快挙を素直に喜ばせなかった。

「なかなかまだ勝てない相手がふたり......、(アンディ・)マリーとジョコビッチがいますので」

「アンディには五輪で簡単に負けたし、ジョコビッチにもトロントで負けた。まだまだ改善点がたくさんある。近づいているとは感じているが、課題を克服し、特にトップのふたりであるジョコとアンディに勝ちたい」

 五輪後の錦織は改めて、「打倒トップ2」への決意を露わにした。

 さらにはもうひとり、錦織が注視を向ける選手がいる。

 リオ五輪の銀メダリスト、フアン・マルティン・デル・ポトロ(アルゼンチン)――。20歳で全米オープンを制した、かつての"未来の王者候補"は、度重なる左手首の手術と2年以上に及ぶ離脱期間を経て、今回のオリンピックで完全復活した感がある。わけても、初戦でジョコビッチを破った熱闘は、世界のテニスシーンに衝撃を与えた。

 ちなみに錦織は、この1歳年長の長身アルゼンチン人と過去4度対戦し、一度も勝っていない。そのデル・ポトロのリオでのプレーを、錦織は大きな驚異と感嘆、そして敬意を覚えながら見ていたという。

「すごかったですね。テニスが......なんて言ったらいいかわからないですが、すさまじかったので。フォア(ストローク)が今、ツアーで一番いいんじゃないかというくらい強烈でした。バックも思ったより打っていたし、スライスも交ぜながらうまくプレーしていた。サーブとフォアがあれだけいい選手は、彼が一番だと思います」

 素直にライバルのプレーを称えつつ、その復帰までの道のりに自らの経験を重ね、胸中に寄り添うように彼は続けた。

「まあ嬉しいことですね。2〜3年休んでいてすごく苦労をしただろうし、辞めるという選択肢もきっとあったろうし、そのなかで戻ってきたので。ジョコやマリーを倒す存在に、絶対に彼はなれる。もちろん、自分のライバルにもなりますけれど、でもテニス界にとってすごくよいことだと思います」

 そのデル・ポトロは、ワイルドカード(主催者推薦枠)を得て、来る全米オープンに出場する。シードのつかぬ実力者は、上位勢にとっては畏怖(いふ)の対象にもなるだろう。

「五輪で彼の試合をいくつか見て、とんでもないレベルだと感じた。またグランドスラムで優勝する力があるだろうし、彼はUSオープンで優勝しているのだから、チャンスを与えたのは大会側のいい判断だと思う」

 デル・ポトロの復活と全米オープン出場。新たなチャレンジを、錦織は歓迎するかのように言った。

 オリンピックで銅メダルを獲っても、彼は「本当は金メダルが欲しかった」と控え目に主張する。トップ5からの勝利を手にしても、「まだ勝てないふたりがいる」と上を見る。

 この青年は、果たしてどこまで行ったら、心から「嬉しい!」と思えるのだろうか――。

 純粋な好奇心から聞いてみると、彼は「うーん......」と軽くうなり、自分自身に問い質すようにしばらく黙した後に言った。

「やっぱマスターズ優勝かなぁ。いや......グランドスラム優勝ですかね。はい」

 心からの歓喜を求め、彼は今シーズン最後のグランドスラムが開催されるニューヨークへと進路を取る。

「ゆっくり、でも、多少は焦りながら」、立ちはだかる障壁を攻略すべく......。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki