授業だけでなく、大学生活までも受け身な姿勢に・・・? (写真はイメージ)

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大学教育の「パンドラの箱」:初年次教育という憂鬱(3)

 連載の前々回(「想像のはるか上を行く大学『大衆化』のインパクト」 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46996)および前回(「ガラパゴス?日本独自の道をたどった大学『大衆化』」 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47232)の寄稿では、2000年代に入って以降、日本の大学がおしなべて「大衆化」の衝撃に見舞われ、さまざまな困難や教育的対応に苦慮する事態に直面したこと、しかも、その際の大学の「大衆化」のあり方は、きわめて特殊日本的な構造を形成したがゆえに、日本の大学教育の困難を増幅したことについて述べた。

 そうした事態への対応として登場したのが、他ならぬ「初年次教育」である。今回は、この初年次教育の実態が、どうなっているのか、それが、期待された通りの教育的な効果を上げているのかどうかに迫ってみたい。

初年次教育の「憂鬱」

 実は、前回の寄稿の末尾には、現在の初年次教育の実態に関して、以下のような「予告」を書いておいた。

 日本の大学の多くは、大変な努力を重ねている。その結果として、一定の「成果」を上げている事例も少なくない。しかし、それらは、比喩的に表現すれば、“治癒的・回復的”な成果であって、学生の実態と大学教育(教育課程)との「構造」的ギャップを解消させるものにはなっていない可能性が強い。
 実施しないでいいわけではない。実施すれば実施しただけの「成果」はある。しかし、そこには構造的な「限界」も見えている。これを、初年次教育の「憂鬱」と呼ばずして何と呼ぶべきだろうか。

 この見立てを修正するつもりは、今でもない。

 では、初年次教育の「憂鬱」は、どこから来ているのか。ここでは、2点に注目してみたい。この後、すぐに述べていくが、1つは、初年次教育のニーズが常に増殖していくこと。もう1つは、面倒見のよい、懇切丁寧な指導が呼び起こしてしまう教育的な「逆説」である。

増殖する初年次教育へのニーズ

 日本の大学に初年次教育が根づき始めた頃、多くの大学は、半期または通年の初年次教育科目を1科目だけ設置していたはずである*。この科目の半期なら15回、通年なら30回の授業の中で、入学した大学・学部への理解を深め、大学生としての主体的な学びへの姿勢を手ほどきし、文献の読み方、ディスカッションの仕方、レポート・論文の書き方、プレゼンテーションの方法等を伝授することを狙いとしていた。

*現在では、ほとんどの大学がセメスター制(2学期制)を採用しているので、初年次教育科目を通年で開講している場合には、「基礎ゼミ機廖峇霑奪璽澂供廚里茲Δ坊措鮎紊2科目となるが、授業内容としては一体的に運営される。

 学生のレベルが一定水準以上であれば、これだけの内容であっても、それを半期または通年の1科目でこなし、初年次教育科目を、大学での学びへの有効なキックオフの機会として活用することは、もちろん可能であろう。しかし、学生のレベルが一定水準以上という条件が満たされない場合には、どうか。

 そもそも初年次教育は、現在の大学には、かつては大学には来なかったであろう学生の層が、大量に入学するようになったという事態に端を発して登場したものである。とすれば、学生のレベルに期待するような条件設定は、はなから非現実的であり、ナンセンスでさえある。そもそも期待できないからこそ、初年次教育が必要になったのである。

 では、そうした大多数の大学の場合、初年次教育科目にはどのような事態が起きるのか。あけすけに言ってしまえば、15回ないしは30回の授業では足りないのである。初年次教育としての十分な教育効果を上げることができない。

ニーズの増殖への対処

 こうした事態に対して、大学としての対処の選択肢は、基本的には2つしかない。

選択肢:十分な教育効果を上げていないことを意識しつつも、現状に甘んじる。
選択肢:教育上のニーズに応じて、新たな初年次教育科目を設置する。

 初年次教育の科目は、その教育効果を考えると、必修科目として1年生全員に履修を課し、かつ、少人数クラスを編成して、複数の授業コマを設置することが多い。大人数の講義と比較すれば、ただでさえコストのかかる科目である。そこにさらに新規科目を設置することは、経営上の観点からすれば、明らかに避けたいところとなる。

 選択肢気里茲Δ淵船腑ぅ垢生じる背景には、こうした事情がある。この場合でも、すでに初年次教育科目を1科目は設置しているということが、ある種の“隠れ蓑”になるということもある。

 ただし、初年次教育が効果を上げないということは、“学生たちの学習意欲を減退させ、学業への不適応を大量に生んでしまうかもしれない”というリスクと裏腹の関係にある。そうした学生の中から留年者や中途退学者が数多く出るようになると、これはこれで別の意味での経営問題となる。それゆえ、当初は選択肢気悩僂泙擦茲Δ塙佑┐紳膤悗癲△い困譴倭択肢兇鮖詭遒貌れざるをえなくなる。

 これが、初年次教育科目が常に増殖していくメカニズムであり、逃れがたい磁場なのである。

初年次教育科目の増殖の論理

 では、初年次教育科目は、どのように増殖していくのか。

 仮想的に述べよう。例えば、最初に設置した初年次教育科目である「基礎演習」では、計4時間の授業で、レポート・論文の書き方を扱うという計画になっていたとする。感想文とレポートの違い、レポートのテーマの見つけ方、文献検索の仕方、レポートのアウトライン作成、パラグラフ・ライティングの方法、文献引用の仕方等、実は教えるべきことは、それなりに多い。これらを、学生に実際に作業させ、添削を入れた提出物を返却するといったフィードバックを施しながら実施することが、「基礎ゼミ」の狙いである。

 そして、実際に授業をしてみると、何が分かるか。――学生は、一つひとつの項目で確実につまずき、当初予定していた授業時間数では、とてもでないが足りないことが判明する。

 おまけに、重大な事実にも気づいてしまう。学生たちに、いくらレポートの書き方の「作法」を教えたとしても、そもそも彼らは文章が書けない。小学校で学んだはずの作文の書き方でさえ怪しい。段落冒頭の一文字は下げさせる、「だ・である」調と「です・ます」調の混在を修正させるといった指導から始めざるをえないとすれば、「基礎演習」内の4時間の授業だけで足りるわけがないのだ。

 では、どうすればいいのか。端的に言って、「基礎ゼミ」とは別に、「文章表現法」という科目を設置して、文章の書き方を基礎から丁寧に教えるしかないではないか!

パンドラの箱を開けた?

 これ以上は繰り返さないが、要するに、こういうことなのである。以下の表には、これまでに筆者が見聞したことのある初年次教育の諸科目を列挙してみた。

(* 配信先のサイトでこの記事をお読みの方は、こちらで図表をご覧いただけます。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47683)

 確かに、ニーズ(教育上の必要)があるところに対応しようとすると、初年次教育のウィングはかくも広がり、科目は増え続ける。もちろん、実際には、初年次教育の科目を無尽蔵に設置している大学はない。経営上の判断や、資源の許す限りで対応している大学がほとんどであろう。しかし、教育上の必要という論理だけで見れば、初年次教育科目は際限なく膨れていく可能性を秘めている。

 大学が提供する教育のことを、最近では「学士課程教育」と呼ぶことが多くなった。初年次教育は、大衆化した大学に入学した学生たちの多くが、直ちには学士課程教育の土俵に乗ってくることができないという事態を前提として、学生たちを学士課程教育へと円滑に移行させる役割を担うべく登場した。

 考えてみれば、これは、大学教育にとって「パンドラの箱」だったのかもしれない。やむにやまれず開けてみれば、そこには想像した以上に労力とコストのかかる課題の渦が待ち構えていたというわけだ。

 ただし、言っておかなくてはいけないことがある。初年次教育への取り組みは、大学教育の善意であり、熱意の表れである。実施すれば、それだけの効果はある。きめ細かな対応を試みようと科目を新設すれば、それ以前と比べて、明らかに成果は出る。そうやって、初年次教育を担当する日本中の大学教員が、日々苦労と努力を重ねている。その営為を嗤うことは、けっして誰にも許されない。

面倒見のよい指導の逆説

 初年次教育の「憂鬱」を招来するもう1つの事態は、初年次教育に熱心に取り組めば取り組むほど、実は当の学生たちは、ますます受け身になり、教育(教員)への依存を強めてしまうということである。

 つまり、懇切丁寧で、面倒見のよい指導をすれば、学生たちの知識やスキルの水準を高めることはできるが、彼らの自主性や主体性を引き出すことになるとは限らないのである。むしろ、教えてくれるまで待つという姿勢を身につけさせてしまう。

 これは、大学生の「生徒」化と言ってもよいが、皮肉なことに、初年次教育の授業の多くは、ある意味で学生を“突き放す”大学の通常の講義やゼミよりも、高校までの授業に似ている。だから、学生たちの「生徒モード」を発動させてしまっている可能性も否定できない。

 下のグラフは、ベネッセ教育開発研究センターの「第2回 大学生の学習・生活実態調査」(2012年)の結果から引用したものである。

 質問は、大学の授業についてではなく、「学生生活」について聞いている。にもかかわらず、それを学生の自主性に任せるのではなく、大学教員が指導・支援するほうがよいと回答する学生が、2008年から2012年にかけて倍増し、30%に到達している。

 この4年間に何が起きたのか。――実は、初年次教育学会が発足したのは、2007年である。この時期は、日本中の大学において初年次教育が浸透していった時期と、奇しくも重なっている。この重複が、単なる偶然であることを祈りたいが。

 初年次教育の狙いは、学生たちを、自ら思考し、判断し、表現する主体的な学びの担い手へと育てることにあった。そうしなければ、彼らを学士課程教育の土俵に上がらせることができないからである。にもかかわらず、初年次教育の実施が、逆説的ではあるが、学生たちをますます受け身で依存的にさせ、彼らの「指示待ち」の姿勢を強めさせているのだとしたら、これほどの誤算はなかろう。

筆者:児美川 孝一郎