対人関係においてコミュニケーション能力が高い人のことをよく「引き出しが多い」なんて言ったりしますが、果たしてそれはどういう人のことを指すのでしょうか? ニューヨーク在住の医学博士・しんコロさんは、自身のメルマガ『しんコロメールマガジン「しゃべるねこを飼う男」』で、コミュニケーションをとる時にやりがちな「3つの間違い」を教えてくれています。さらに人付き合いの上手い人が実践している、ある一つの「スキル」も伝授、さっそく読んでみてください!

皆がする間違い

前回、「物事を判断する時には、自分の引き出しが多い方が良い」という話をしました。「引き出し」とは情報や考え方の種類のことで、人生経験や人との関わりでそのバリエーションは増えてゆくでしょうし、また、英語を使えるようになることで世界中の文化や考え方に触れることができるというという話もしました。

ざっくばらんに考えたら、考え方に偏りがあるよりも柔軟な考え方ができて知識もある方が、物事をより客観的に見ることができますよね。そのツールの一つとして英語を出しましたが、英語を使う場面のない(又は体系的に学ぶ機会がなかった)日本の人も沢山いると思います。

かといってそういった人たちが偏っているかといえばもちろん違います。ただし、自分を省みて「ちょっとまてよ」と一歩引いて物事を考え直すことができるかどうかが、非常に重要だと思うのです。至極当然のようなことを言っているように思われるかもしれませんが、これがなかなか難しいのです。

なぜなら、ほとんどの人が「知らずにしてしまう間違い」というものがあるからなのです。そんなことを、自分を省みながらも感じている今日このごろです。今日はその続きを書いてみたいと思います。

そういった例を、最近読んで興味深かった、アメリカの経済学者バートン・マルキール氏の著書の内容から少しかいつまんで紹介してみたいと思います。

ちなみに、マルキール氏の本は人生設計・経済・投資が主な内容なので、メルマガの読者のみなさんにとって必ずしも興味深い内容ではないかもしれませんが、その中で取り上げられていた心理学の例が、みなさんの生活の中でも活かせるのではないかと思ったので、その部分だけ紹介してみたいと思います。本の感想文や紹介ではないので安心してくださいね。

さて、「認知心理学」という学問があります。何やら突然難しく聞こえるかもしれませんが、これは人がモノゴトを認識・理解してから判断を下すというプロセスを研究する分野です。そして、認知心理学の研究者達が面白い証明をしています。

「人間は、物事が不確実な状況の中で判断を下す時は、ある規則性をもって間違いをしてしまう」というのです。そして、その間違いで最もよくあるのが自分の信念や能力に対する過信と、将来に対して過度に楽観主義であることなのだそうです。

具体的にどういうことなのか、それを検証した実験を交えて説明しますね。その実験では、沢山の被験者に対して、こんな質問を投げかけます。

「あなたは、平均的なドライバー、あるいは自分以外のドライバーと比較して、あなたの運転技術はどのくらいのレベルだと思いますか?」

この問いで、被験者が他人と自分を較べて運転能力にどれだけ客観的な認識があるかどうかを知ることができます。この問いをアメリカの大学の学生にしたところ、80〜90%が「自分は他人よりも運転が上手で、事故を起こす可能性も低い」と答えるのだそうです。

日本人はアメリカ人に比べると慎ましい性質があるので、ここまで高い割合にはならないかもしれませんが、それでも多くの人は「周りの人の方が運転がヘタだ」と思っているのではないかというのが僕個人の印象です。というのも、他のドライバーの文句を言いながら運転する人をしばしば見かけますが、「あ、今のは私の判断ミス!私の運転が悪かった!」と言いながら運転する慎ましい人は見たことがありません(笑)。

当然のことながら、被験者が「自分の運転能力は他人より上だ」というは思い込みや直感であって、根拠は何もありません。確率論的には被験者が多数であればあるほど、皆の運転能力は平均レベルに落ち着いてきますし、そもそも集団の中で自分のレベルがどれくらいなんて判定できないのです。でも多くの人が、自分の運転能力を過信してしまうのです。

もう一つの実験では、同じアメリカの大学生に彼らとクラスメイトの将来性に質問を投げかけます。

すると、「自分たちの将来はバラ色で、仕事も成功して幸せな結婚をして一生健康だ」と答える一方で、「ではあなたのクラスメイトの将来はどうなると思う?」と問われると、「病気になったり離婚したり、諸々の不幸に見舞われるだろう」と予想するのだそうです。

この回答はあまりに過信していて、日本人からするとちょっと滑稽にも映ります。しかし、彼らが予想するクラスメイトの未来は、皮肉抜きで平均的アメリカ人に現実的に起きうる事なのです。

このような心理学実験は色々行われていて、他の例では「自分の運動神経は上位25%以内に入っているか?」という、誰でも判断できそうなかなり客観的な問いに対しても、60%の被験者が「入っている」と答えたという報告もあります。そして被験者のたった6%が、自分の運動神経は平均よりも下だと答えたのです。

みなさんはいかがですか?日本人だと遠慮っぽい部分があるから、人前では思わず「私は平均かそれ以下だと思う」と言ってしまうかもしれませんが、心の奥ではどうでしょう。

少なくとも車の運転を見ている限りでは、不快なことがあった時に他のドライバーのせいにすることはあっても、自分のせいにしている人はあまり多くない気がします。

人間の不合理な思考プロセス

さて、ここまで読んでお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、上記の実験には心理学だけでなく、確率統計的な側面も含まれてきます。おっと、難しい話が出てきました。でも、難しい話はしないので安心してください。

人は、確率統計的な事実は曲げられないのに、それでも自分はその確率統計通りにはならない!と信じてしまう傾向があるのです。これが過度な過信に繋がってしまうことが多々あるのです。そして次の例では、確率論を無視してさらに不合理な判断をしてしまう人間の心理が浮き彫りになる例を示しています。

ある職場で、2組の全く同じプロ野球選手の写真のカードセットを使って実験が行われました。1組のカードセットは箱の中に置かれ、後からその中から1枚だけランダムに取り出せることになっています。そしてもう1組のカードセットは、被験者に1枚ずつ配られます。ただし被験者の半数は好きなカードを選ぶことができ、残りの半数の被験者はただ渡されるだけです。そして箱の中から引いたカードと同じカードを持っている人に、賞金が与えられるというルールになっていたのです。

すべてのカードが配られたところで、新たな被験者が1人加わって、カードを買いたいと申し出ます。カードを保有する被験者達は、いくらかの価格でカードを売却するか、それとも賞金を当てることに賭けてカードを保有するかの選択をすることになります。

言うまでもなく、どのカードも賞金にありつく確率は同じです。にもかかわらず、カードを売ってもいいと思う価格は、自分で選んだ被験者グループの方がただ渡されただけのグループの価格よりも、例外なく高くなるのだそうです。

ちょっとややこしいゲームですが、被験者の気持ちを代弁するとこうなります。

「自分で選んだカードの方が、思い入れもあるし、賞金を当てる可能性が高いかもしれない。だから売るとするならば、ただ渡されたカードよりも高くてしかるべきだ!」

もちろん、自分で選ぼうがただ渡されようが、賞金が当たるかどうかの確率は同じです。しかし、人はしばしばこうした根拠のない判断をしてしまうのです。

皆さんは「ナンバーズ」という宝くじをご存知かと思いますが、あれは自分で当選番号を予想して選べる形式のくじです。こういった「自分で番号を選べる」方式のくじは、上記の実験で観察される心理的誤りをうまく逆手にとっているのです。

「自分で番号を選べるならば、ランダムに引く番号よりも当たる確率が高いかもしれない」という間違った認識を産んでしまうのです。さすがにそこまで間違っていない人でさえ、自分で番号を選ぶことで思い入れ(もしくは思い込み)ができるのです。こうして、普通に引くくじ引きよりも購入者には魅力的に映り、よりくじ引きが売れるわけです。

いかがでしょうか?ややこしいかもしれませんが、ここまでをまとめるとこうです。

「人は、確率を無視して自分に都合の良い判断をしてしまう」

僕達は目にウロコをつけている

さあ、そしてここからが皆さんの生活にも関わってくる部分です。

このように、人は「自分で結果を左右できるかも」という幻想を簡単に持ってしまいます。そしてこの誤解は、厳密な確率論の原則を理解せず無視してしまい、思わず直感で物事を判断してしまうからなのです。

人は得てして、「類似」や「代表性」から物事を直感的に判断して、間違いが増幅されてしまうことがあるのです。例えば、「刺青をしている」から「危ない人だ」とか、「動物好き」だから「良い人だ」といった短絡的な判断です。

2002年のノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが行った実験が、この問題を端的に示していて、非常に興味深いので簡単に紹介します。

この実験では、被験者はまず次のような文章を読まされます。

「リンダは31歳の女性で独身、はっきり自己主張するタイプで非常に聡明である。大学では哲学を専攻し、学生時代から差別や社会的不公正に強い関心を持ち、核兵器廃絶を求めるデモにも参加していた。」

これを読んだあと、被験者達はリンダに関するいくつかの記述が、どの程度「もっともらしい」と思うかを尋ねられました。

一つ目は「リンダは銀行の窓口係の仕事をしている」というもので、ふたつ目は「リンダは銀行の窓口係の仕事をしており、フェミニスト活動に積極的に関わっている」というものでした。すると、被験者の85%が、リンダは単なる銀行の窓口係にすぎない確率よりは、フェミニスト運動家でもある可能性の方が高いと答えたのでした。

ところが、この回答は確率論の基本的原則である、「複合命題の確率」に違反しているのです。難しい用語を抜きにして噛み砕いて言えば、AとBの両方であるという確率は、Aであるという確率に等しいか、それ以下であるべきという原則です。

確かに、リンダは差別や社会的不公正に関心があるのだから、フェミニストなのではないかと連想させます。なので、リンダは単に「銀行窓口係」というよりは、「銀行窓口係で、かつフェミニスト運動家だ」といった方が、よりリンダを表しているように思えてしまうのです。

いまいちピンとこないかもしれないので、もう少し身近で単純化した例を考えてみます。

「5歳のしんコロちゃんは、果物屋さんと駄菓子屋さんの前を通ると、興奮してジタバタしはじめる」

という記述があったとします。では、しんコロちゃんは「スイカが好きである」か、もしくは「スイカが好きであり、ふ菓子も好きである」のどちらがそれっぽいか?と聞かれたらいかがですか?「スイカとふ菓子が好きだろう」と連想してしまいがちですが、確率論的には「スイカとふ菓子の両方が好き」な確率は、「スイカが好き」な確率よりも同じかそれ以下になるのです。

もしまだピンとこなければ、数を極端にしてみれば良いのです。しんコロちゃんは「スイカが好き」かもしくは「スイカ、みかん、りんご、ふ菓子、うまい棒、そしてすももが好き」のどちらか?と言われれば、後者のすべてがドンピシャで当たる確率は単に「スイカが好き」というよりも低くなるのは当然なことが分かると思います。

「なんだ、そんなの当たり前だ」と思われるかもしれませんが、これが対人関係になるとむしろやってしまう誤りなのです。

たとえば、ちょっと派手目な女性が夜遅く自宅に帰って来たのを目撃した近所のおばちゃん達が「あの人は不倫をしているにちがいない」とゴシップとして面白いストーリーに増幅してしまうのもその例の一つです。

こういった現象を、先述のカーネマンとトベルスキーは基礎確率の軽視ないし無視に起因する「代表性の簡便的意思決定法」と名付けたのでした。

対人スキルはまずここから

いかがですか?先述の運転能力の実験でわかったような「根拠のない過信」、そして野球カードの実験で明らかになった「自分で結果を左右できるだろうという幻想」、そして最後にリンダの記述の実験で示されたような「代表性で連想を膨らませてしまう間違い」が組み合わさると、人はとんでもなく間違った判断や、偏見で物事や人を見てしまうことがあるのです。

しんコロちゃんの例だと「なんだそんなこと」と思えることも、事象が複雑になるとその原理が見えなくなってしまい、全く不合理な判断をしてしまうことがあるのです。

「あの人は大阪生まれのO型で寅年生まれだからね〜そういうとこあるわよね〜」なーんて、みなさんもご自身の日常で、思い起こしたら根拠のない判断や偏見で人を判断していたことがあったなぁ、と思うことはありませんか?僕も、自分が気づかないところであったに違いありません。

でも、判断を下す前に「ちょっとまてよ」と自分の視点を省みることで、相手に偏見を持たずに接することができるのではないでしょうか。

人間関係において「相手を理解していないのではなくて、むしろ自分(の判断)を理解していないのだ」ということに気づくと、公平さや優しさ、そして心の余裕や平穏さも生まれるのではないかと思うのです。そして、これは人間関係だけでなく、様々な場面で活かせるスキルになるのではないかと思います。

 image by: Shutterstock

 

『しんコロメールマガジン「しゃべるねこを飼う男」』

著者:しんコロ

ねこブロガー/ダンスインストラクター/起業家/医学博士。免疫学の博士号(Ph.D.)をワシントン大学にて取得。言葉をしゃべる超有名ねこ「しおちゃん」の飼い主の『しんコロメールマガジン「しゃべるねこを飼う男」』ではブログには書かないしおちゃんのエピソードやペットの健康を守るための最新情報を配信。

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出典元:まぐまぐニュース!