かつて日本の卓球が日本と中国を、そしてアメリカを動かした。ニクソン米大統領の電撃訪中や日中国交正常化に道を開いたピンポン外交である。森武著『ピンポン外交の軌跡』は、歴史を画したこの出来事の舞台裏を、現場に立ち会った当事者が明かした実録だ。資料写真。

写真拡大

世界のアスリートが力と技を競い合った「平和の祭典」リオデジャネイロ・オリンピック大会が閉幕した。連日熱戦が続いたが、卓球では男女ともに、日本と中国の激闘ぶりが目立った。

かつてこの卓球が、日本と中国を、そしてアメリカを動かした。ニクソン米大統領の電撃訪中や日中国交正常化に道を開いた「ピンポン外交」である。

森武著『ピンポン外交の軌跡−東京、北京、そして名古屋』は、歴史を画したこの出来事の舞台裏を、現場に立ち会った当事者が明かした実録だ。スポーツが国際政治を揺り動かした事例として、オリンピック祭典を機に想起したい。

1971年春、名古屋の世界卓球選手権大会に参加した中国チームと米国チームの交流をきっかけに、ベトナム戦争で敵対関係にあった米中両国が急接近し、翌年明けにニクソン大統領の訪中が実現。72年秋には、日本と中国の国交正常化に発展した。

小さなピンポン玉が世界の外交を動かしたのである。日本を舞台にしたスポーツ交流が国際政治を動かした歴史的な出来事だ。この名古屋世界卓球選手権大会に中国の参加を求めて奔走したのが、日本卓球協会会長を務めていた後藤●(金ヘンに甲)二氏(故人)と同協会常任理事だった本書著者・森武氏(現・早稲田大名誉教授)らである。

当時、中国は文化大革命の最中で国内が混乱しており、2年に一度開催される世界卓球には2回続けて不参加だった。世界最強チームだった中国の不参加は世界卓球の人気にも影を落としていた。中国の参加を切望する世界の声を受け、両氏らは国交のなかった中国・北京に行き、困難な交渉の末、中国の参加に成功する。

本書につづられたエピソードは興味をそそる。71年1月に香港経由で広州から北京へ、航空機と鉄道を乗り継いでの長い旅路。難交渉の中で、立ちはだかったのは台湾問題。後藤会長は中華人民共和国が唯一の政党政府であるという「一つの中国」政策を認め、台湾チーム(中華民国)のアジア卓球連盟からの除名を決断する。後藤氏は同連盟会長も務めており、国際卓球連盟からの要請もあったとはいえ、苦衷の決断であった。

かつて日本留学経験があり卓球も上手な周恩来首相が交渉の要となり、最終的に毛沢東主席が派遣を決定する。「一つの中国論」を掲げ、国際舞台へ復帰したいとの中国側の並々ならぬ決意も伝わってくる。

名古屋世界卓球大会には中国の60人もの代表団が来日し、日中親善上も大成功を収めた。この大会を通じて中国代表団と接触の機会を得た米国代表団は大会終了後、その足で中国を訪問したいという希望を出した。予定になかった行動だけに、大会主催者は大慌て、ハプニングの連続だったが、この想定外の米選手団訪中も実現。米中間の“雪融け”に寄与した。

多くのエピソードが満載だが、次の逸話は興味深い。
米選手の一人が間違えて中国チームのバスに乗り込むハプニングが起きた。中国選手は驚いたが、その中の一人がとっさに中国産の錦織をプレゼント。米国選手はTシャツをお返しのプレゼントとした。これをきっかけに米中選手団の間に友情が芽生えた。

その後、国際卓球連盟の3代目会長の荻村伊智朗氏が韓国と北朝鮮合同チームの実現に努め、1991年の千葉世界選手権大会で実現した。2008年に胡錦濤国家主席が福原愛選手と早稲田大学で卓球をするなど、卓球を通じた親善外交は現代でも行われている

日本を舞台とした「ピンポン外交」が日中米をはじめとする世界各国の友好・平和につながったのは素晴らしいことである。元中日新聞論説委員の河村範行氏は本書巻末に「現代においても、国際関係の潮流を巨視的に捉え、進むべき道を戦略的に構想し、その実現のために外交や民間の有効な手段を活用しつつ、取り組んでいくことの重要さが改めて求められている。ピンポン外交の教訓は今もなお活きている」と解説している。(八牧浩行)

<森武著『ピンポン外交の軌跡−東京、北京、そして名古屋』(ゆいぽおと刊、1300円税別)>