吉田沙保里の涙には、心を揺さぶられずにいられなかった。

 女子レスリングで五輪4連覇を逃した33歳は、決勝戦終了とともに涙を流し続け、謝罪を繰り返した。テレビカメラの前で、「ごめんなさい」と声を振り絞った。

 4大会連続の金メダルを自らに課し、日本選手団の主将も務めた彼女は、どれほどの責任感と使命感、重圧と期待を背負っていたのだろう。銀メダルでも溢れ出る涙は、彼女が胸に秘める覚悟の大きさを示すものだったに違いない。

 柔道の代表選手も、金メダルを逃すと涙を流す。落涙をこらえる者は、表情を消すことで自分を責める。

 日常的に柔道に興味を持っている日本人は、決して多くないと感じる。五輪以外でスポーツ紙の1面を飾ることがなく、テレビ中継も限られている。つまりはそれほどニーズがない、ということだ。

 その一方で、日本人は五輪の柔道に金メダルを求める。銀や銅を獲得しても、「金を逃したのか」とか「金には届かなかった」いう受け止め方が広がる。

 他でもない僕自身は、無関心な立場で無責任な期待を、選手たちに背負わせている。国内外の大会を会場で観戦することがなく、テレビ中継があってもチャンネルを合わせないのに、柔道には金メダルを欲しがった。
 
 日本人の柔道への関心度は、選手たちも感じていると思う。試合会場の熱気やマスコミの扱いを見れば、自分たちがどれぐらい注目されているのか、どれぐらい期待されているのかを、無言のうちに知らされるものだ。

 五輪の畳に上がる柔道家たちは、それでも金メダルを宿命とする。世間一般の注目度や期待値など、極論すれば関係ない。柔道は日本の国技であり、日本柔道の威信を賭けて、彼らは戦う。柔道へのゆるがせにできない忠誠心と覚悟を、金メダルをつかむことで示そうとする。

 五輪の表彰台に上がっているのに、世界の2位や3位になったのに、笑顔を浮かべない、浮かべられない吉田や柔道家を思い返すと、男子サッカーに対する葛藤があぶりだされる。

 手倉森誠監督と選手たちは、良く戦った。ナイジェリア戦の戦いぶりはあまりにナイーブで、コロンビア戦も勝ち切れるゲームだったものの、試合を重ねるごとに内容は改善されていった。黒星スタートから引き分け、勝利と結果が上向いていったのは、決して偶然ではない。

 せめてあと1試合見たかった、と思う。ブラジルW杯を教訓としたコンディショニングの成功も、実現しなかった準々決勝への思いを募らせる。

 だが、彼らは3試合で大会を去った。目標の「メダル獲得」に、手が届かなかった。

 戦いへ臨む覚悟と負けて失うものは、同じ大きさのはずである。銀メダルに終わった吉田は、金メダルを逃した柔道家は、とてつもなく大きなものを失ったに違いない。ならば、男子サッカーチームは何を失ったのだろう。

 男子サッカーチームが胸に秘めた覚悟は、メダル獲得に相応しいものだったのか。手倉森監督と選手たちは良く戦ったが、吉田の涙を見た僕の気持ちは揺らぐ。