南米のリオデジャネイロで掴んだ銅メダルは、北米大陸の北東に位置するシンシナティに向かう途中、フロリダの自宅に数時間だけ立ち寄り、大切にしまってきたという。

「誰も盗まないといいんだけれど......」

 メダルの居場所を明かした後、彼は笑って付け加えた。

 メダルをかけたラファエル・ナダル(スペイン)との死闘から24時間も経たぬうちに、錦織圭の姿は、次の戦地であるシンシナティにあった。8月16日の昼からは会場でファンが見守るなか、練習も行なっている。オリンピックには同行しなかったダンテ・ボッティーニ・コーチとも談笑し、軽くではあるがコートの感触を確かめるようにボールを打つ姿からは、連戦の疲労以上に、軽やかな解放感が感じられた。

「ホッとしたというのが、勝ったときは一番大きかったですね」

 銅メダルを決めた一戦を終えたときの心境を、錦織はそう振り返る。嬉しさは、もちろんあった。だが、それ以上に、「気持ちをすごい奮い立たせて、最後はがんばった」がための脱力感のほうが大きかった。

「まあ......、やっぱり本当は金が欲しかったので......」

 多少の苦みが混じる笑みを浮かべた口もとから、本音がポロリとこぼれ落ちる。それでも時間が経つにつれ、オリンピックでメダルを手にした事実は、喜びを伴ない心に染み込んだ。

「実感は沸いてきましたね。いろんな方からメッセージをもらったし、LINEは溢れ返るくらいになっていた。とても嬉しい反響でした。銅メダルではありますが、最後にメダルをかけて戦うのは滅多にできない経験ですし、有意義な時間を過ごせました。個人戦とはまた違った重みだったり、反響の大きさなどたくさんのものを感じながら、1週間オリンピックで過ごしていました」

 今回のリオ五輪は、勝ってもランキングポイントは与えられず、スケジュールも過酷を極めた。シングルスで金メダルに輝いたアンディ・マリー(イギリス)や、ダブルス金・シングルス4位となったナダルらも、9日間で競われたテニス競技のスケジュールについて、「あまりにタフ。2週間は欲しかった」と口をそろえたほどである。

 それでも、錦織の五輪出場の決意は固く、そこに関してはチームスタッフたちも、「相談の余地はなかった」という。それほどの覚悟で向かったリオの地から、理想の色ではないながらもメダルを持ち帰った感慨や安堵は、周囲が思っていた以上に大きかったのかもしれない。

 しかし、その余韻に浸る間もなく、ATPマスターズ1000の戦いはすでに始まっている。マスターズでの優勝は、錦織が今季最大の目標として掲げてきたものだ。実際、今シーズンはマスターズで2度決勝に進出し、実現可能なところまで迫っている。とはいえ、今回のシンシナティ・マスターズに関しては、「絶対に無理はできない」との迷いを抱えながらの戦いになるのは間違いない。

「USオープンに、ピークをどうしても持っていきたい。ここで(ランキングポイント)1000点を獲りにいくのか、それともリラックスして臨むのか。身体と相談しながらになると思うので、試合をこなし、様子を見ながらになる。一番はケガをしないことなので......」

 その「様子を見ながら」の戦いの初戦となった対ミハイル・ユージニー(ロシア)戦で錦織は、6−3、6−2と簡単にも思えるように勝利を手にした。ただ、返球が難しそうなボールを、無理して追うことはなかった。

 序盤はボールをネットにかける場面も多く、疲れの色は隠し切れない。リオ五輪に比べてはるかに跳ねるサーフェスと飛ぶボールに戸惑い、リズムも掴めなかった。それでも相手のミスを誘いつつ、勘所(かんどころ)を押さえる強者のテニスで、1時間21分の完勝。疲労が「まだ抜け切っていない」と認め、快調とは言いがたい自分のテニスに小首をかしげもした。それでも改めて、目標は「マスターズ優勝」だと公言し、その手応えや心構えも口にする。

「今年はマスターズで2回決勝に行けているので、そこはポジティブにとらえている。優勝は近く感じてはいますが、なかなかまだ勝てない相手がふたり......マリーとジョコビッチがいるので、そこを倒さないと優勝はない。そこらへんをゆっくりと、でも多少は焦りながら、勝っていけるようにしたいですね」

 では、その立ちはだかるふたりを破り、夢の階段を上がるうえで、リオ・オリンピックはいかなる意味を持つのだろうか――。

 錦織が答える。

「あの場でしか経験できない緊張感があったし、特に最後の試合は6−2、5−2とリードしたころからだんだんプレッシャーを感じてしまい、メダルもチラつきながらの戦いで硬くなった。いつものようなプレーができなくなってしまったけれど、それを乗り越えて勝てた経験が、今後も力になっていくと思います」

 4年に一度の夢舞台で得た「重圧」と、それを克服した「事実」は、必ずツアーでの戦いに生きると彼は信じる。

 栄誉と成果への誇りと自信、それと同時に抱く、気持ちを切り替えてさらなる高みを目指す覚悟。自宅に残してきた銅メダルこそが、それら混ざり合い光を放つ、種々の想いの象徴である――。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki