愛を、ヒーローにしてやりたかった。

すごくつらい。ただただつらい。客席の大歓声がつらい。佳純ちゃんの笑顔がつらい。美誠ちゃんのガッツポーズがつらい。「さすが五輪4回目の経験者」という労いがつらい。「3人の勝利です」という絆がつらい。卓球女子団体戦の銅メダルがつらい。メダルをもらってこんなにつらいなんて。

何で愛はヒーローじゃないんだろう。

見れば見るほど普通の選手で、世界の中では凡人で、星も、運も、そこには特に何もない。愛のボールは何度ネットに当たり、何度コチラ側に落ちただろう。相手のボールは何度台のエッジに当たり、あらぬ方向に跳ねただろう。シングルスの3位決定戦で負けたときも、団体戦の準決勝を落としたときも、最後のボールはエッジに当たって消えていった。及ばないまでも、最後の攻撃を放って終わることさえ、愛には許されなかった。

幾多の名選手を見てきた。

ヒーローは、あぁならない。残念だけれど。

肉体的な素養もあるんだろう。技術的な不足もあるんだろう。愛のフォアハンドがもっと強く速く鋭ければ、相手のラケットより速く後ろに抜けたし、相手の回転に負けずにネットを越えたし、相手の手を弾いて遠くへ飛んでいったんだろう。精神的な弱さもあるんだろう。ラリーの中でこらえきれずに、勝負を急いでしまうところが、自分を苦しめているのだから。でも、それ以上に、愛はヒーローではなかったんだ。それを認めるのが、耐えがたく、つらい。

メダルに挑んだ4試合。李暁霞には完全に負けた。死力を尽くし、技術を総動員したけれど、愛の渾身のスマッシュはことごとく打ち返された。清々しくもある完敗は痛みも少なかった。しかし、日を追うごとに痛みは深くなっていく。銅メダルをかけたキム・ソンイとの戦い。何で今出てくるんだ。新しい強者が。あと1大会待ってくれたっていいじゃないか。ようやく愛が中国人以外で一番上にいくチャンスだったのに。永遠不滅の自分のメダルを獲るチャンスだったのに。何故今。

前回の銀を越えようと挑んだ団体戦準決勝。5番手を託された愛に出番がまわってきた。石川佳純は追い詰められても、驚くような集中力で反撃し、2つの勝利を獲ってきた。愛が勝てば、金か銀。試合を決める場面が愛に託された。本当にいい試合だった。追い詰められ、苦しめられても、踏みとどまった。流れが悪いと見ればボールを変えろと要求し、手を替え、品を替え、食い下がった。

最終ゲーム、愛が逆転をしたとき、ついにそのときがきたと思った。勝って、愛がヒーローになる。愛の突き上げる拳。弾ける笑顔。仲間が愛のまわりに集まり、輪を作る。フラッシュの嵐。愛の笑顔が新聞の1面になって、激賞のサーが並ぶ。銀以上確定、頼むぞ愛ちゃん、金メダル。アスリートとしての極みに至る瞬間がきたと思った。残酷な現実は、それを許さなかったけれど。

「すべての負けの原因は私にある」

愛の言葉に、それでも僕はもう一度奮い立った。ヒーローはこうして立ち上がるものだと。誰かをかばい、すべてを背負い、痛みを負って立ち上がるものだと。もはやメダルの色によって証明することはできないけれど、福原愛がヒーローであることを示すことはまだできる。立ち上がれ。立ち上がれ。

迎えた3位決定戦。シングルスの1試合目に登場した愛は、第1ゲームを大差で取るも逆転負け。ふと気づく。あぁ、これで愛は勝利の中心にはいられないのか、と。愛の打ち放った最後の1本が銅メダルを決める1本には絶対にならないのだ、と。たとえ勝っても。

応援しているはずなのに、心に影が差していくような気持ち。第2試合に登場した石川佳純は強かった。ここまでのメダルマッチで、愛が何本も何本も打っても決まらなかったフォアの強打がバチンバチンと決まる。受けにまわってもどんなボールも跳ね返してしまう。大差をつけられても、そこから粘り腰でひっくり返してしまう。不運なエッジボールに見舞われても、それをも挽回し、逆に連続エッジボールで試合を決めてしまう。強かった。「佳純ちゃんに救われた」と思った。

第3試合のダブルス。愛のリオ最後の試合。愛は伊藤美誠を支え、声を掛け、気遣いながら勝利を目指した。勝負所での愛のボールはネットにかかり、一方で、伊藤美誠が苦しい態勢から放ったボールはエッジボールとなって跳ねた。ゲームを取り返す大きな一本。「何か」を起こすチカラの持ち主だと予感した。そこから怒涛の勢いで相手を圧する若き才能。強かった。ドイツ戦で見せた固さを乗り越え、勝利を引き寄せた。「美誠ちゃんに救われた」と思った。

愛はベンチに下がり、声援を送る。

第4試合を託された伊藤美誠は躍動している。強烈なフォアが突き刺さり、対戦相手の顔を曇らせた。愛はそれをベンチで応援する。懸命にアドバイスを送る。高く大きな音で鳴る拍手で鼓舞する。その応援を背に、伊藤美誠はかつての銅メダリストを圧倒していく。やることなすこと上手くいき、強打でもラリーでも上回る。「すごいすごい」とため息をつきながら、愛がその役になれなかったことを考えてしまう。

こうやってヒーローは生まれるんだな。ヒーローはこういう日に勝つ人のことなんだな。愛はそれを支えるサポートなんだ。おにぎりを持ち込んだり、牛丼を配ったり、トイレを直したり。励ましたり、支えたり、応援したり。自分の勝利よりも他人の傷をえぐらないことを重んじ、絆を何よりも大切にするお姉さんなんだ。自分が奇跡を起こすのではなく、それができるヒーローを支えるサポート役なんだ。勝利に近づくにつれてあふれる涙。それは、喜びのものではなくて、愛のリオは、愛を苦しめて終わっていくのだという、つらさだった。

ダメかぁ、ダメなのかぁ。

そんなに強くないのは知ってるけど、いいバック打つじゃん。フォアも頑張って鍛えたじゃん。日本の卓球をこんなに盛り上げたのは愛だろ。愛が頑張ったから、女の子たちが卓球に向かい、裾野が広がり、「卓球も素敵だね」って思ってもらえたんじゃないか。愛が「頑張ってる」とか「大きくなったね」とかじゃなく、プレーで日本を魅了し、喝采を浴びたっていいじゃん。「強かった」って。「日本のエースだ」って。愛のサーで終わる物語があってもいいじゃんよ。

メダルは嬉しい、そりゃ嬉しい。何もなかったら、どれほど愛が苦しんだかを考えると、救われる。でも、愛のチカラでそれを獲らせてあげたかった。苦しみ抜いた末に、最後に輝きを放ち、ヒーローとなって終わらせてあげたかった。嬉し泣きでは絶対にあり得ない、胸が詰まるあのインタビュー。「本当によかった」というのは、大変なことにならずに済んでよかったっていう安堵じゃないか。その涙は「足を引っ張って」ばかりだったからこぼれた安堵の涙じゃないか。「みんなに感謝してます」って。「祈るしかできなかった」って。

自分で獲った銅なら、色は望みどおりでなくても大事にできる。

けれど、コレは、形として残った痛みだ…。

みんなの気持ちを考えて、決してそうは言わないだろうけれど、この銅を「私が色を悪くしたのに」「みんなに獲ってもらった」メダルだと、どこかで思ってしまっているのではないか。ヒーローじゃなくて、足を引っ張ってばかりで、祈ることしかできないのに、もらってしまった、と。「ごめんなさい」と。喜びが大きく広がるほどに、つらさも大きくなっていく。

愛はこれから、このメダルを提げて、たくさんの「おめでとう」を受け止めます。メダルがあるのはとても幸せことなんだと噛み締め、笑顔で応えるはずです。人々が思い出すのはエッジボールに抗議をする姿と、涙で濡れたインタビュー。彼氏のことを聞かれ、幸せを祝福される。そして、愛はみんなにメダルを見せて、感謝を述べるのです。もしかしたら「期待に応えられず…」くらい言うのかもしれない。愛は、日本卓球界のアイコンだから。看板だから。

ヒーローになれない選手は山ほどいる。

メダルがあるだけでも、こんなに嬉しいことはない。

贅沢だというのはわかっていますが、今回こそはと思ったのです。愛が、内村航平や、木村沙織や、吉田沙保里のように、時代とジャンルを背負った選手として輝くのではないかと。世界を背負うとまでは言わないが、日本を背負う人として、史上最高の福原愛を見せるのではないかと。しかし、最後に見た姿は、テーピングを巻いた足、泣き濡れた顔、サインを求める観衆に応える姿。

それはもう、日本卓球界のアイコンとして道を切り開いてきた、いつもの、ただの、福原愛だった。

泣き虫愛ちゃん、だった。