15日、中国メディアの今日頭条はこのほど、「日本側から見た侵華戦争」と題する記事を掲載した。写真は南京の旧軍需工場。

写真拡大

2016年8月15日、中国メディアの今日頭条はこのほど、「日本側から見た侵華戦争」と題する記事を掲載した。以下はその概要。

抗日戦争(日中戦争の中国側の呼称)は、中華民族の歴史上、最も悲惨であり、最も成功した国家防衛戦争だっだ。一方、敵である日本の一般民衆は、自国が起こした侵華戦争をどう捉えていたのか。

1860年代の明治維新、日本の資本主義革命は当初から中下級武士の支持を集め、そうした下で軍国主義政府が確立されていった。明治天皇は日本全土で、富国強兵を目的とした資本主義改革を実施した。この改革が日本を富ませ、民衆は教育を受ける機会を得た。さらに重要なのは、「当代並ぶ者がいない」と言われたロシアと中国が相次いで日本軍に敗戦したことだ。弱小の日本は一夜にして、自らが信じられないほどの強大な力を手にすることになった。

日本の民衆は軍国主義を熱狂的に支持し、残された理性は多くなかった。男子の入隊は光栄なこととされ、全ての学校に軍事課程が設けられた。小学校も例外ではない。女性も同様で、当時の資料によると、進んで従軍慰安婦となった女性もいたという。明治維新以降、日本民衆の軍国主義への熱狂、政府による侵略戦争への支持は、こうした段階にまで達していたのだ。

日本が発動した侵華戦争は、初期においては極めて順調に運んだ。日本軍は東南アジアへ全面的に出動し、西洋列強の植民地を一つ、また一つと自らのものとしていった。大日本帝国の構想は、ほぼ現実のものとなり、日本国民の多くが、英明な天皇の導きと勇敢な軍隊の努力の下、日本が主導する大東亜共栄圏は実現目前と考えていた。日本人は、この戦争がアジアの人々を西洋列強から解放するものだと信じていた。高まる民俗的感情と崇高に見える目的が、当時の日本民衆の目に、この戦争を侵略とは映さず、むしろアジア人民を解放する正義の戦いと認識させたのだ。

転換点が訪れたのは1941年12月7日だった。日本軍は米真珠湾を奇襲した。海軍司令官の山本五十六が「眠れる巨人を起こしてしまった」と語ったように、半年もたたない42年4月18日、米軍のB−25爆撃機16機が、東京、名古屋、神戸などの市街地を空襲。ミッドウェー海戦でも日本軍の主力は大きな痛手を受け、東南アジアの占領地を次々に失っていった。日本政府は、戦場から届く敗報を隠ぺいした。日本民衆も最終的に勝利するのは日本だと信じていた。だが相次ぐ敗報を政府も隠しきれなくなり、民衆の信念も揺らぎ、懐疑の声も増え始めた。

1945年8月6日、米軍が広島に投下した原子爆弾が20万人の命を奪った。3日後には同様のキノコ雲が長崎の上空にも現れた。8万6000人が軍国主義の副葬品となった。2発の原子爆弾が、日本人の幻想を打ち破り、残されたのは失敗に対する恐怖だけとなった。

昭和天皇による終戦の詔書には「敗戦」「降伏」という文字は直接使われていない。そこにあるのは敵が新たに使用した残虐な原子爆弾についてだ。日本の元軍人は戦後、日本にはまだ十分な戦力があった、2発の原子爆弾がなければ日本は敗れることはなかったと強弁している。戦後日本の過激分子は一貫して、日本が敗れた相手は中国ではなく原子爆弾だとしている。

戦争を熱狂的に崇拝し、失敗に恐れおののき、自らが犯した罪を断固として認めない。これこそが日本国民が100年近くにわたり歩んできた心の過程なのだ。日本が敗れた相手は中国ではなく進んだ化学兵器を有する米国だ、先の戦争は中国およびアジアの人々を西洋の植民地主義から解放する戦争だったと主張する日本人は、いまも存在する。(翻訳・編集/芥川)