井上康生は栄華を極めた柔道家であり、彼ほど指導者に適した人格者はいないと思う。

 井上の柔道を初めて見たのは、彼が宮崎県の小学校に通っていた5年生の時だった。すでに内股が代名詞となっており、「山下(泰裕)二世」と呼ばれていた。

 2000年シドニー五輪決勝での内股は、柔道の五輪史における最も美しい「一本」だと言っても過言ではない。しかし、連覇が確実視されていた04アテネ五輪では無残に散った。前日に眠ることができず、やつれた状態で畳に上がった結果、準々決勝で敗れ、敗者復活戦でも背中を畳につけた。見ていて信じられない光景だったが、誰より本人が現実とは思えなかっただろう。

 五輪における栄光も、挫折も味わった。

 その男が監督となり、日本男子柔道はリオ五輪の舞台で金メダル2個、銀メダル1個、銅メダル4個という、全7階級でメダルを獲得した。全階級メダル獲得は4階級の開催だった東京五輪以来、52年ぶりのこと。4年前のロンドンで金メダルがゼロに終わり、柔道母国の威信が失墜したことを考えれば、井上はわずか4年で再建に成功したわけだ。

「名選手、名監督にあらず」は、井上には当てはまらない。彼の指導者としての資質を実感したのは、男子のコーチとして参加していたロンドン五輪だった。

 柔道初日、女子48kg級に出場した福見友子は、準決勝で敗れ、3位決定戦に回った。そのわずかな時間の間に、井上は福見のもとを訪れ、失意の彼女に向かって「オレは(アテネ五輪の)悔いが残っている。お前にはそういう悔いを残して欲しくない」(福見談)と伝えたという。

 残念ながら福見は、銅メダル獲得はならなかったが、担当でもない女子の選手にわざわざこういう声をかけられる人間こそ、チームを束ねる監督にふさわしい人物像だろう。

 同日、当時の男子監督である篠原信一と、強化委員長だった吉村和郎は、銀メダルを獲得した男子60kg級の平岡拓晃が表彰台に立つ姿を見ることなく宿舎に戻り、翌日になってようやく労(ねぎら)いの言葉をかけただけだった。

 とりわけシドニー五輪で"誤審"によって銀メダルに終わった篠原は、日本の柔道家が金メダルを逃す悔しさを誰より知っている柔道家であるはずだ。だからこそ、夢破れた選手には、誰より先に労いの言葉をかけ、未来に向けて背中を押す一言をかけてやるべきではなかったか。どこの世界に、メダルを獲得した選手に健闘を讃える言葉すら投げかけない指導者がいるだろうか。

 こういう首脳陣の体質が、金メダルゼロの大惨敗を招いたと思わざるをえなかった。敗者の気持ちに立てる人間こそ良き指導者であり、それにふさわしい人物が井上だった。

 ロンドン五輪が開催された4年前は、強化合宿が頻繁に行なわれていたが、ひたすら「量」をこなす稽古にオーバーワークに陥(おちい)る選手が後を絶たず、選手の不満は鬱積していた。さらに数人のコーチがチーム全体を指導するような指導体制に「これで本当に五輪を戦えるのか」という疑念が選手の間に渦巻いていた。

 もっと目的別の合宿を行なった方がいいのではないか。担当コーチ制にして、コーチと選手が密な関係を築き、外国人選手対策を練るべきではないか。井上は「担当コーチ制」の再導入を首脳陣に訴えたが、却下された。当時の首脳陣と選手の板挟みに井上はあっていたのだ。

 井上が監督になり、女子監督の南條充寿とともにまず取り組んだのが、強化合宿の改革と担当コーチ制の復活だった。合宿ごとに「技術合宿」「基礎体力向上のための合宿」「追い込み合宿」などとテーマを決め、また軽量級や重量級が分かれて合宿を行なうこともあった。

 担当コーチ制によって、コーチが選手の所属先に顔を出し、指導する。そうすることで選手の所属先とも良好な関係が築け、連携した動きが生まれてくる。

 またオーバーワークを避けるために、世界選手権に出場した選手には、講道館杯の欠場を許可した。前体制では、出場を義務づけて、ケガを抱えたまま出場してさらに悪化させるような不運な選手もいた。

 リオでは大会初日、男子60kg級の高藤直寿と女子48kg級の近藤亜美が悔しい銅メダルに終わった。試合後、井上は「高藤は私に『金メダルを第1号としてプレゼントする』と言ってくれていました。色は違えども、第1号のメダルを僕自身にプレゼントしてくれたことに対して、誇りに思っております」と労い、南條監督は「切り込み隊長として最低限の戦いはしてくれました」と讃えた。

 その言葉を聞いた時、日本の柔道が大きく変わったことを改めて確信した。そして大会を通じて、監督への感謝の言葉を口にする選手が相次いだ。監督を男に── そんな心意気が伝わってきていた。

 終わってみれば男女あわせてメダルの総数は12個(金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル8個)。全競技終了後、大会を総括するコメントで、井上は言葉に詰まり、涙ながらにこう4年間を振り返った。

「選手を信じること、それだけでした」

 かくして、日本柔道は復活を遂げた。

柳川悠二●文 text by Yanagawa Yuji