小内刈りで難敵の背中を畳に叩きつけ、「一本」が宣告されても――つまり日本男子柔道にとって北京五輪の石井慧以来、2大会ぶりの金メダルが決まっても、72kg級代表の大野将平(旭化成)にガッツポーズはなく、ニコリともしなかった。

 世界の人は思ったはずだ。どうしてこの日本人は、金メダルだというのに喜ばないのだろうか、と。大野は言う。

「対人競技なので、相手を敬(うやま)おうと思っていました。(五輪は)日本の心を見せられる場でもあるので、よく(高ぶる)気持ちを抑えられたと思います」

 盤石だった。圧巻の戦いぶりだった。初戦(2回戦)を横四方固めで勝ち上がると、3回戦はUAEの選手を内股「一本」で投げ飛ばす。優勝を争う対抗馬と目されていた安昌林(アン・チャンリム/韓国)が2回戦で消えたことも気を楽にしたかもしれない。準々決勝ではジョージアのラシャ・シャフダトゥアシビリを払い腰「技あり」で片付けた。

 技のバリエーションが豊富で、体幹が強いために受けも強い。準決勝のアンティシェル戦では巴投げで「技あり」を奪い、続いて繰り出した背負い投げは勢い余って「有効」止まり、最後は再び巴投げで「一本」に仕留めた。一瞬の隙も、心の動揺もなく、危なげなく決勝に進出した。

「今年は"圧倒的な差"を目標に掲げてやってきた。積み重ねてきたものを五輪で出すだけでした」

 山口に生まれ、2歳上の兄・哲也氏の影響で5歳から柔道を始めた。小学校を卒業すると兄を追って上京し、同じ弦巻中学・世田谷学園高校で柔道漬けの日々を送った。その間、大野を指導した柔道私塾・講道学舎の持田治也氏は「あの経緯を考えたら、今日の日があることが奇跡に近い。よくぞここまで来た、という思いだけです」と話した。

「あの経緯」とは、天理大学4年だった2013年に、当時の柔道部の4年生が1年生十数名に暴力を振るった体罰問題である。主将を務めていた大野は、全日本柔道連盟からは強化指定選手を外され、学校からは主将を剥奪されて停学処分となり、学校のある天理市では柔道ができない日々が続いた。持田氏が続ける。

「あの時期、天理には居場所がなくて、彼は生まれ故郷の実家に一時帰省した。出身の道場に足を運び、子どもたちに柔道の稽古をつけた。その経験が大野を成長させた。2年後のリオ五輪に出て、柔道家として全力を尽くし、完全燃焼する姿を、子どもたちに見せたいという気持ちが芽生えたと思います」

 子どもたちばかりではない。古賀稔彦や吉田秀彦らを輩出した講道学舎は、15年に閉塾。2歳上の66kg級の海老沼匡とともに、講道学舎が生んだ「最高傑作」として、金メダルを獲得することしか頭になかった。

 決勝の相手はルスタム・オルジョイ(アゼルバイジャン)。1分44秒に内股で「技あり」、そして3分15秒に小内刈りを決めた。この日の5試合で、ほとんど大野の柔道着が乱されることもないまま、戦い終えた。

「日本柔道は、やはり重量級がピックアップされる。悔しい部分もありました。中量級の僕でもインパクトのある、ダイナミックな柔道、本当に強くて美しい柔道をできるんだということを証明したかったし、柔道界のシンボルみたいな選手になれるようにこれからも精進していきたい」

 リオの地で大野は、鮮やかで美しく、潔く無骨に一本を狙い続け、世界の頂点に立った。

柳川悠二●文 text by Yanagawa Yuji
photo by JMPA