『人生の真実 (創元海外SF叢書)』グレアム・ジョイス 東京創元社

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 家族ってほんとにメンドクサイ。相続みたいなあからさまな利害を別にしても、妙な距離感というか、ほとんど体臭を嗅ぎあって素知らぬ顔しているみたいな感じがなんともいえない。しかし、ときにそれは安心感でもあって、なにも言わずに近くにいられて体温が伝わってくるのがありがたい。家系なんて制度でも絆なんてキレイごとでもなく、家族の(ありふれてはいるのだけれど)あやふやだけど逃れられないありようを、『人生の真実』は巧みに表現している。ファンタスティックな要素は多分にあって、ひとつひとつを取りだせば異常なのだけれど、物語全体としてみれば日常のなかにすんなり溶けこんでいる。マジックリアリズムというのとも違って、リアルライフが幻想をも包含して平然とある感じだ。

 原題はThe Facts of Life。平凡でも不思議でもけっきょくfactsなんですね。ちなみにfactの語源はラテン語 のfactum(つくられたもの)なんだそうだ。神さまがおつくりになったか人間がつくるか別にして、もともとあったのではなく"営為"で生まれるわけですね。

 最初に登場するfactはひとりの赤ん坊だ。二十歳の娘キャシーが、空爆の爪痕が癒えきらないコヴェントリーの町角で、自分が生んだ子ども(まだ名をつける前)を抱いている。育てられないので養子に出すことにし、引き取り手を待っているのだ。子どもの父親が誰で、いまどうしているかはこの時点では説明がない。読者としてはいかなる"営為"で子どもが生まれたか気になるところだ。キャシーは結婚しているのか? 妊娠につながる行為は合意だったのか? 

 ただわかるのは、キャシーには何人かの姉がいて、彼女たちが口々に「キャシーには育児なんて無理よ」といったことだ。キャシー自身もそう思っているが、引き取り手があらわれると急に翻意して赤ん坊を連れ帰ってしまう。姉たちは口々にキャシーをたしなめるが、みんなの母親でヴァイン家の女家長であるマーサは「みんなで分担して育てるのさ」と宣言。かくして、おかしな家族ドラマがはじまる。赤ん坊はフランクと名づけられた。

 キャシーが「育児なんて無理」と烙印を押されるのは、ふだんの定まらない態度ゆえだ。キャシーは理性を保って行動ができない。ふらっと出かけて帰ってこないなんてざらだし、男を誘惑するのにもためらいがない。自分の欲望に忠実で、ある意味では非常にイノセントだともいえる。それと矛盾しないかたちでフランクのことも愛している。

 おかしいのはキャシーだけではない。ヴァイン家は全員が風変わりだ。母親マーサのところには幽霊が訪ねてくる。長女のアイダは誰が見ても死体のような男(ゴードン)と結婚した。オールドミスの双子、イヴリンとアイナはスピリチャリスト教会の重鎮で、霊媒や超能力者と親しくしている。オリーヴは何にでも涙を流す。ユーナは逆にどんなときにも涙を流さない。ビーティは知的概念の神聖さを守るためなら拳を振りあげることを厭わない。

 そんな家族のなかでフランクはちゃんと育つのか?

 しかし立ちどまって考えれば、完全な家族なんてありえない。子ども時代に「うちの家って普通と違う」と思ったこと、ありませんか? ぼくはしょっちゅうでした。育てる人間がちょっとくらい変でも、それがトガったかたちで子どもへ向かなければ、なんとかなりそうな気がする。むしろヴァイン家のように変人ぶりに多様性があると、フランクもどれかに偏ることなく、自分の生きかたを見つけられる(というか、そうするしかない)。

 そんな適当な逞しさがこの作品の基調だ。一家を率いるマーサ曰く「どの一家にも風変わりな歴史があり、屋根裏には気のふれた女が、地下室には骨が隠されている。家族とはそういうもの」

 やがてフランクにも不思議な能力があることがわかってくる。それは才能といえば才能なのだが、逆にいえば見えなくてよいものが見えてしまう、聞こえなくてよい声がきこえてしまうことでもある。少年の目を通してみた日常は大人の調整された遠近感とは異なって歪んでいるものだが、フランクの場合はそれがひとまわりふたまわり拡大していて、さらにアヤシイ世界になっている。

 舞台は英国北部のコヴェントリーで、物語中の「いま」は1945年から54年だ。しかし、終始、1940年11月14日のドイツ軍によっておこなわれた激しい空襲が影を落としている。冒頭の場面(キャシーが赤ん坊を抱いている)もそうだし、結末も空襲に端を発した因果がかかわってくる。

 また、物語の途中に挿入される回想では、キャシーが事前に空爆を予知していたことがあかされる。空襲の数日前、当時十五歳のキャシーはなけなしの貯金を叩いて中古のレコードプレイヤーを手に入れた。聞くのは「ムーンライト・セレナーデ」ばかりだ。取り憑かれたような行動だが、家族はキャシーの気まぐれはなれっこでとくに気にかけない。すでにそのときキャシーは自分の内部に流れる血の感覚で、コヴェントリーを壊滅させる大規模な空襲を予感していた。しかし、そんなことを口にしても誰も取りあってはくれないし、彼女自身も運命を回避しようなどと考えていない。彼女の関心事はもっぱら自らの欲望だ。こみあげるような疼きに促されてキャシーは家を抜けだし、ダンスホールで見知らぬ空軍兵(ピーター)を誘う。この作品はエロチックなことはあけすけに語られるが、それは男の都合に応えた表現(セクシャルなファンタジイ)ではなく、あくまでキャシーが主体だ。

 空爆のときにも、彼女は別な男(焼夷弾から逃げまどっているマイケル)を導いて、すでに炎上している大聖堂のそばにある塔へ登り、爆撃機を眺めながら交わる。この場面が凄まじい。エクスタシーのさなか、キャシーとマイケルは一機を選んでそのコクピットへ飛んでいく。「あたしたちは天使」と彼女は言う。「でなきゃ悪霊」。

 じつは、ドイツ軍はコヴェントリー大空爆を「ムーンライト・ソナタ」なる符牒で呼んでいた。もちろんキャシーが相手国側の機密を知るはずはないが、彼女が聞いていた「ムーンライト・セレナーデ」は図らずもそれに呼応している。偶然というか暗合だが、物語のなかでくっきりアクセントになっている。グレアム・ジョイスは巧い。

 やがて戦争が終わり空襲は過去のことになる。しかし、物語の冒頭、キャシーが赤ん坊を抱いている場面では空襲の跡はまだはっきりと残っているし、エピローグ(1954年)でも空襲にまつわる因縁がひとをひととをつなぐ。見方を変えれば、ひとりひとりの"営為"が重なりあって因縁というfactがつくられる。そういう巡りあわせもまた人生の不思議だ。素敵ではないか。

(牧眞司)