「『イチアマ(市立尼崎)が優勝をしたら、球場の外でそっとオレを胴上げしてくれよ』という小橋先生の約束を果たせないままでした。すみません、必ず甲子園に行きます。これからも真夏の太陽のように、空の上からイチアマの野球部を見守っていてください」

 市立尼崎は、昨年の夏は姫路工業、秋は明石商業にともに3回戦で敗れた。それがこの夏、下馬評を覆す快進撃で、尼崎市制100年のメモリアルイヤーに33年ぶり2度目の甲子園出場を決めたのだ。抽選会では主将の前田大輝が選手宣誓を引き当て、見事、大役を務め上げた。

「なんですかねぇ......。見えない力に背中を押さえているような、不思議な感じが続いています」

 兵庫県大会の戦いのなかで、何度も小橋の顔が浮かんできたと竹本は言った。

「野球はやってみなわからんぞ」

 監督としてバトンを受け継いだときに小橋からもらった言葉のひとつだ。竹本も頭ではわかっていたし、自身の現役時代も同様の言葉を何人もの指導者から聞いていた。しかし、小橋の言葉は竹本の耳に残った。

 小橋は23歳で市立尼崎の監督となったが、自身は軟式テニス出身。本格的な野球経験はなかった。それが赴任時に校長から「君は色が黒くて元気そうだ。野球部の監督をせぇ!」というひと言で高校野球の世界に飛び込み、甲子園までたどり着いた。

「野球はやってみなわからんぞ」の言葉は、小橋の生き様そのもののように思えた。昨年、亡くなってからあらためて小橋のことを考える機会が増えた。現チームも突出した選手はいないが、小橋ならチームをどう作っていくか、選手の力をどう引き出していくかということを自問自答した。

 竹本は市立尼崎のOBではない。熊本出身で高校は野球の名門・九州学院。高校2年の春にチームはセンバツ出場を果たしているが、投手の主戦は同級生の園川一美(元ロッテ)で、このとき竹本はメンバー外だった。

 中京大でも公式戦の通算成績は1勝5敗。長身左腕でストレートに勢いはあったが、ムラっ気のある気性も災いし、成績が安定しなかった。ところが、面白半分で受けたプロテストで巨人と阪急に合格。阪急を選択し、思いがけない形でプロの世界に飛び込むことになった。

 当時、阪急がファンのために月1回発行していた『THE BRAVES』という機関紙がある。その1987年1月号に新入団選手の紹介記事があり、そこに中島聡、藤井康雄、本西厚博らと一緒に、いかにも鼻っ柱の強そうな表情で並ぶ竹本の姿がある。寸評には「好きな言葉は負けてたまるか」とあり、次に目指すものは「プロでの成功しかない」と書いてある。

 しかし、プロ生活ではチャンスをつかみきれず、一軍登板は1試合のみで90年に引退。その後、球団職員として働いたあと、取得していた教員免許を生かし、教職の道へ進んだ。

 武庫工業で体育教師として採用され、サッカー部の顧問を務めた。以前はプロ野球経験者がアマチュア資格を取得するには教壇に10年立つことが必要だったが、その後5年に短縮され、97年からは2年になった。その第1号が竹本だった。

 この武庫工業時代に小橋と出会った。小橋は、2006年に上梓された『ゼロから始めた甲子園』(新風舎)で、最初に会った竹本との印象についてこう書いている。

「プロ野球経験者なので今はまだ高校生に指導できませんが、『いつの日が指導者になりたいです』と話す彼の野球に対する情熱にひと目惚れしたばかりか、野球に対する考え方でも意気投合し、私はこの人物をおいて後継者はいないと心に決めました」

 竹本が赴任してきたとき、ちょうど市立尼崎も変わろうとしていた時期だった。95年に起きた阪神・淡路大震災で大きなダメージを負った学校の復興に伴い、体育科を新設。ほぼ専用で使用できるグラウンドに加え、体育館や室内練習場も新たに設置され、強豪私学に劣らない環境が整った。野球部強化の機運も高まるなか、まず竹本は部長として野球部に加わった。ここで監督であり、教育者でもある小橋と身近に接し、指導者としてイロハを教わった。

「高校野球の指導者になった当初、『この選手はこれぐらいボールを投げられるようになるだろう』『この選手はここまでだろう』......。そういう先入観を持って選手を見ているところがありました。でも、小橋先生は違った。野球にも、子どもたちにも可能性を求め続ける人でした」

 その後、小橋から監督を受け継いだものの、強豪校が揃う兵庫を勝ち切ることは難しかった。金刃憲人(楽天)、宮西尚生(日本ハム)ら好投手を多く輩出したが、甲子園にはあと一歩の繰り返し。それが今年、第2シードで登場すると、5回戦で西宮今津と延長15回引き分け再試合を制し、準々決勝で報徳学園、準決勝で社と、次々と強豪校を撃破。決勝ではこの春のセンバツ8強の明石商業を倒し、162校の頂点に立った。

 優勝翌日、竹本は島本高校の近くにある小橋の自宅を訪ねた。「遅くなりました」と仏壇の前で頭を下げると、真っ黒に日焼けした笑顔の写真から「ようやったな」と返ってきたように思えた。

 生前、竹本の話になると小橋は人懐っこい笑顔を浮かべながら、「アイツは真っすぐな男やからなぁ」と、ひと言入れてから語ることがよくあった。真っすぐゆえ、遊びがなく、衝突もあり、生徒を追い込んでしまうこともあった。

 しかし、その竹本も変わった。2012年から2年間、監督を外れて部長としてチームに関わったことも大きかった。

「あのタイミングで監督を離れ、視野が広がりました。選手を見るにしても普段はどんなヤツなのかとか、いまチームはどういう状況なのかとか、いろいろ見えるようになりました」

 監督として復帰したとき、無駄な力みが抜け、選手たちの力が引き出される下地が徐々にできつつあった。そして小橋の死。ここで竹本は、小橋がイチアマ野球部に捧げた思いをもう一度、深く考えた。

「小橋先生が亡くなって、オレはいったい小橋先生の思いをどれくらい継いでやってきたのかと考えたら、ひたすら申し訳ない気持ちになって......。ガンを患い、明日どうなるかわからない状態でもユニフォームを着て、ギリギリまでノックを打って、選手たちと真正面から向き合う。それに対して自分はどうなんだ、と。もっとやれることもありましたし、甘えていました。本当に恥ずかしい気持ちになって......」

 いろんな思いが集約されてつかんだ33年ぶりの夏。前回出場したときは、池山隆寛(元ヤクルト)を中心にチームは初戦(2回戦)で茨城東を延長10回6対4で破り、3回戦で久留米商業に敗れた。

「竹本、思いきりやったらええんや!」

 天国からのエールを胸に、竹本が甲子園での戦いに挑む。

谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro