・国男忌や煙草すひ継ぐおもわ顕(た)つ 角川源義      ※1
各地で連日の猛暑が報じられていますが、暦の上ではもう秋。8月8日は秋の季語にもなっている国男忌です。日本人の暮らしの根幹を捉える民俗学を確立した、柳田国男の命日にあたります。貴族院書記官を経て、常民の生活史をテーマに日本民俗学を創始した柳田は、若い頃には抒情派詩人として知られていました。この機会に歌人としての柳田国男を、少し探ってみましょう。

夕顔の花


抒情派詩人としての柳田国男

柳田国男は、非凡な記憶力をもっていたという十歳に満たぬ頃から、歌を詠んでいたようです。そして十六歳のときには森鴎外の門を叩き、鴎外の発行する『しがらみ草紙』に、盛んに歌を発表します。

・君まちてみんとおもひし夕がほの花のかきねにこさめふりきぬ
・利根川の夜ふねのうちに相見つるかとりをとめはいかにしつらん

そして二十歳を超えると、繊細な片思いの歌も登場します。

・一目見てはや恋しきは此世なるえにしのみにはあらじとぞ思ふ
・たれこめて君もものをや思ふらむこよひは琴のおともきこえぬ

のちの民俗学の巨人も、青春時代の作品にはロマンが香ります。「恋の詩人」と呼ばれたこともあったそうですよ。

利根川の夕刻

利根川の夕刻


芭蕉を「高笑ひを微笑に入れかえた」と評価

やがて若き行政官として地方を歩き、岩手県遠野市の民間伝承を聞書きした『遠野物語』を刊行した柳田国男。旅の中で、思索の中で、生涯歌から離れることはありませんでした。
しかし柳田は言葉の表現などの問題から現代短歌へは否定的で、近代俳句も認めなかったようです。芭蕉の俳諧を評価し、「芭蕉翁一門の俳諧が、新たに如何なる手段を講じて、我々を悦び楽しませようとしていた。(中略)高笑ひを微笑に、または圧倒を慰撫に入れかへようとした」(※2)と、論じています。
俳諧とは、発句(ほっく)と連句の総称です。俳諧がもともとは詩や歌の滑稽や諧謔性を意味とすることからも、柳田は句や歌が醸し出すユーモアを愛したのでしょう。柳田は江戸時代のように、俳句を「発句」、連句を「俳諧」と称していたようです。実際に柳田は、のちに弟子の折口信夫と、連句を楽しんでいます。連句とは、五七五の長句と七七の短句を付け連ねる共同作業です。

「清らわか水」の川

「清らわか水」の川


森のふくろう笑ふらむかも

民俗学を打ち立てたのちの柳田の歌は、こんな風に人々と自然を伸びやかな眼で詠み上げます。

・うぶすなのもりの山ももこまいぬはなつかしきかなものはいはねども
・にひとしの清らわか水くみ上げてさらにいづみのちからをぞおもふ

そして柳田は、『遠野物語』序文の末尾に歌を添えています。

・おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろう笑ふらむかも

「時代を超えて生きる翁のように、飛びもせず鳴きもせず、遠いところから自然や人間の営みを見守っている森のふくろうは、笑うであろうか。」森のふくろうが『遠野物語』を笑うのか、あるいは柳田が翁なのか、森のふくろうと会話をしているのか。いずれにしても長い時を経た人々の営みを柳田は慈しみ、穂を拾うように、語り部の言葉を物語に紡いでいったのでしょう。もしかしたら柳田自身が、今と昔、此処と彼方を往来する、遠方(をちかた)の森のふくろうだったのかもしれません。

短歌引用及び参考文献:
来嶋靖生(著)『柳田国男と短歌 続・森のふくろう』河出書房新社(1994)
※1引用:
角川学芸出版 (編集) 『角川俳句大歳時記「秋」』角川書店 (2006)
※2引用:
柳田 国男 (著)『不幸なる芸術・笑の本願』岩波書店 (1979)

森のふくろう

森のふくろう