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CPUのメーカーAMDのマーケッターとして1986年に入社した当時、私は半導体の技術的知識はおろか、マーケティングの基本的知識も持ち合わせていなかった。今から思えばよく入れたなというのが実感だが、入社後に経験したことがその後の私の成長を可能としてくれたことは幸運であったし、試行錯誤しながら学んだマーケティングというのは、ビジネスにおける感覚的な面を磨く上では非常に重要だと思っている。

初期の半導体のマーケティングは、技術者がデーターシート(製品仕様書)を片手に、手あたり次第主要顧客(相手もエンジニア)をまわる、という単純なものであった。営業は客のニーズを吸い上げるために飲み会に顧客を誘い関係を築き、購買部長を味方につける(抱き込む)、という解かりやすい方式である。

その当時のマーケッターとしての私のメインの仕事は、英文の技術資料、マーケティング用パンフレットなどの日本語化と、広告宣伝、PRなどであった。私がAMDに入りたてのころに技術業界誌に掲載した広告が残っていたのでお見せする。当時の半導体の広告の大半はデバイスの写真とスペックがずらりと並んでいるものが多く退屈だった。そこで私と某広告代理店チームはもっと目を引くものを造ろうと頭をひねった結果がこれである。

その頃AMDは消費電力が非常に大きいバイポーラ型のトランジスタでデバイスを作っていたが、エンド製品の軽薄短小化のトレンドに見合わずその主要製品を低電力化・集積化に長じているCMOS型のトランジスタに再設計していった。その最初の製品がこのAm29C00/293C00シリーズで、右に大きくCMOSと書いてある。その当時から低カロリー・健康食としてのブランドが浸透していった日本食のテーマにあやかったものである。

私が入社するまでは本社USで作成した広告のイメージに日本語訳をつけると言うものであった。この広告からスタートした一連の"日本ものシリーズ"は、日本で企画・立案・制作を全てやるという手の込んだものであるが、当時AMDは日本市場に注目していて(私が採用された理由の大きな要因はこれである)、日本独自のマーケティング活動の解かりやすい結果として社内では大変注目を浴びた。

今だから話せるが、実はこの広告の私の狙いはもう1つあった。結果がすぐに出なければ解雇もありうるという外資系で腰を落ち着けて働こうとすれば、まず自分のポジションを確立するのが先決だと思い、広告イメージのアピール先を日本の顧客だけでなく、US本社の連中にも向けていた。この点では大いに効果があった。

前述したAMDのCEOジェリー・サンダースは広告好きで有名だった。要するに目立ちたがり屋で、自分の会社がどう外部に表現されているかについては常に興味を抱いている。これは、広告宣伝部長にとって最悪のケースである。社長の鶴の一声で仕込んだ企画がおじゃんになったり、突然新しいキャンペーンの指令が下ったりといったことが日常茶飯事であった。

ある日私の直属の上司、AMD本社宣伝部長のダン・バーンハートから電話があった。前回の電話の時は次の日の便でロス・アンゼルスに飛び乗り、ジェリーに日本語パンフレットを手渡しに行く羽目になったことがあったので、電話があって"広告の件だが"、と言われた時には少し身構えた。ダンは"ジェリーが今回の日本ものシリーズを大変気に入っている、CMOSの広告を大きなポスター用に何部か作ってすぐ送ってほしい"、という事だった(実際その後本社を出張で訪問した際に、この広告のポスターが本社の事務所の壁に額に飾ってあったのを見た時には本当にうれしかった)。ほっとして電話を置こうとするとダンは続けて、"ところで次のISDNの広告だけれど、ゲラを見たが日本画のテーマが実に面白い、ジェリーは最終稿には色を一切つけないで白黒調で通すようにと言っているが大丈夫だろうね"、と言う。私は"もちろんそのつもりですよ、水墨画ですからね"、と答えた。1000人規模の会社になっていたAMDのCEOがそこまで見てくれているのは大変ありがたく、私のAMD全体でのポジションが認知される点では大成功であったが、同時に"ヘマをしたら危ない"という実感がわいた。

その後も、私と某広告代理店のチームは結構ド派手な広告を連発した。ある広告では"飛び出す絵本"、の技法を使い、右と左で違う色(赤と青)の専用メガネを広告に挿入し、6-8ページにわたる大々的な広告をやり、ある雑誌の年間広告大賞を戴いたこともある。

これらの広告は業界で注目されたが、実際の売り上げにどれだけ貢献したかは測定もしなかったので解からない(今では考えられない話である)が、大変楽しかったのは確かである。古き良き時代の事だとご容赦願いたい。

このような感じで、私のAMDでのマーケッターとしての仕事が始まった。私はもともとマーケティングの基本を勉強したことはないが、本社の人間とのやり取りで実に多くのことを学んだ。

それもそのはずで、シリコンバレーの有名企業となったAMDには現地ではスタンフォード大学、カリフォルニア州立大学などでマーケティングの最先端を勉強した優秀な人たちがこぞって働いていたのだから、申し分ない環境だった。しかも、給料をもらいながら勉強できるのだから最高である。

半導体市場が急速に成長するにしたがって、マーケティングの在り方もどんどん発達していった。それまでのシリコンバレー企業のやり方―経営者の直感で、新しい分野でのポジションの確立を狙って差別化された製品をとにかく早く出して、他社を出し抜く―というやり方はだんだん通用しなくなっていった。初期の半導体ビジネスではマーケティングは"本当の技術が解からない人たちの胡散臭い仕事"と言うイメージがつきまとっていたが、技術主導のやり方に限界が生じマーケティングの重要性が増していった。そこにいち早く目をつけた企業がインテルである。

インテルが1990年代に始めた"インテル・インサイド"マーケティング・キャンペーンは今でもMBAのクラスでは度々取り上げられるケース・スタディーで、近代ハイテク・マーケティングの草分けである。私はAMDで働いてはいたが、実はインテルと争うためにインテルのマーケティングから多くを学んでいたのだ。

著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ

(吉川明日論)