【サイモン・クーパーのフットボール・オンライン】
■オリンピックの危機(3)

 オリンピックの勝者に対する私たちの純粋な称賛を、暗い影が覆い始めている。ドーピングだ。

 長いことオリンピックでは、ドーピング検査が行なわれなかった。その後始まった検査には効果がなかった。1980年のモスクワ大会では、陽性だった選手がひとりもいない。

 無邪気な時代が終わりを告げたのは1988年9月27日。ソウル大会の陸上男子100メートルで、ベン・ジョンソンが世界新記録で優勝しながらドーピング違反で失格となった日だ。オリンピックではありがちな物語に、きわめつきの要素が加わった。勝者は不正を働いていることが発覚する。ときには大会が終わって何年もたってから──。

 ドーピングがすぐに発覚することはほとんどない。政治学者のロジャー・ピルク・ジュニアはスポーツ界の不正について書いた新著『ジ・エッジ』に、学会誌『スポーツ医学』に発表された研究を引用している。ドーピングをやっている一流アスリートは、全体の14〜39%に及ぶというものだ。「一方、世界反ドーピング機関(WADA)が同じ時期に行なった薬物検査では、検体の1〜2%にしか禁止薬物が見つかっていない」と、ピルクは書いている。

 その背景について、WADAの委員長をつとめたディック・パウンドはこう語った。「誰かを捕まえたい者はいない。そんなことをしても得にならないからだ。自国の選手が捕まったら、その国が恥をかく。ある競技の選手が捕まったら、その競技の関係者が恥をかく」

 ドーピングを行なうアスリートのほうが検査を実施する側より先を行っているということもある。ウクライナ人のユーリー・ビロノグは、2004年アテネ大会の砲丸投げで金メダルを獲得した。ビロノグがドーピングを行なっていたことを突き止めるには長い年月がかかった。もともと銀メダルだったアメリカ人のアダム・ネルソンが繰り上げによる金メダルをアトランタ空港のフードコートで受けたのは、2013年のことだ。

「汚れたヒーロー」という筋書きは、オリンピックの後日談として定番になった。ピルクが書いているように、アメリカの英雄カール・ルイスは1988年にジョンソンが行なったドーピングの「被害者」と思われていたが、「ソウル大会の前に薬物検査で3度にわたって陽性となっていたのに、出場を許されたことを2003年に認めた」という。

 勝者たちに対する疑惑は、リオデジャネイロで新たな局面を迎えるだろう。今大会には、ロシアの陸上チームが出場できない。2010〜2015年にロシアが国家ぐるみでドーピングを隠蔽していたことがわかったためだ。

 バッハが力のあるロシアを前にひるんだと批判する人もいる。ロンドン大会の円盤投げで金メダルを獲得したドイツ人のロバート・ハルティングは「私にしてみれば、彼も組織的なドーピングの片棒を担いでいる。トーマス・バッハを恥ずかしく思う」と語った。

 バッハがどんな手段で立ち向かおうと、おそらくドーピングは解決不能な問題だ。もしかすると、いずれアスリートは、ドーピングの重要性がなくなるほど強い遺伝子を持つかもしれない。倫理学者のシルビア・カンポレージが言うように、50年以内には「優れた『自然』な肉体を持ったアスリートが時代遅れに見えるようになる」可能性もある。

 オリンピックに関する僕の最初の記憶は、1980年モスクワ大会の記念グッズである赤と白の寝袋だ。子どもの頃、家族でキャンプに行くときには、いつも持って行った。西側諸国がソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワ大会をボイコットしたあと、格安で売られていたのを、母がどこかで見つけたにちがいない。

 当時、バッハは大会ボイコットに反対する西ドイツ選手の先頭に立ったが、努力が実を結ぶことはなかった。バッハが出場したオリンピックは、1976年のモントリオール大会が最後になった。1980年のボイコットによる彼の心の傷は、リオデジャネイロ大会へのロシアの参加を許す決断につながっているだろう。

 1972年ミュンヘン、1976年モントリオール、1980年モスクワとトラブルが続いたオリンピックは、戦後最悪の低迷期を迎えていた。1984年大会に立候補した都市はロサンゼルスだけで、共産主義圏は1980年大会の報復としてボイコットした。

 だが、僕たちは気づいていなかった。このときカリフォルニアの太陽の下で、新しいオリンピックの時代が幕を開けていた。なぜなら、世界が変わりつつあったからだ。テレビの普及とスポンサーの協賛金が増えたことで前より資金が入るようになり、ロサンゼルス大会は1932年以来初めて黒字のオリンピックになった。やがて冷戦が終結し、オリンピックのボイコット騒動にも終止符が打たれた。

 いまオリンピックは、ロサンゼルス大会以降で最も大きな危機を迎えている。オリンピックをドーピングから救うには、時代を画すような変化が必要だ。だが、それがどんなものかは、まだわからない。

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サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper 
森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki