オーバーエイジとしてリオ五輪に臨む藤春。さらなる成長のため、重圧のかかる役目を引き受けた。写真:小倉直樹(サッカーダイジェスト写真部)

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 軽やかに、なめらかに、藤春廣輝はピッチを駆ける。
 
 武器は、50メートル5秒8の快足でサイドを駆け上がる攻撃参加と、守備でも広範囲をカバーするスタミナ。攻守両面でハイレベルなパフォーマンスを見せるJリーグ屈指の左サイドバックが、オーバーエージ選手としてリオ五輪代表に選出された。
 
「スピードなら、誰にも負けない自信はある。ワールドカップに出たいという目標もあるし、自分の力が世界でどのぐらい通用するのか、試してみたい」
 
 そう語る五輪代表のスピードスターは、じつは高校時代まで50メートル7秒台という平凡な選手だった。
 
 走ることは大好きだった。小学校低学年の頃は買い与えられた自転車に乗らず、母の自転車を走って追いかけるような少年だった。小学3年から始めたサッカーでは同じ左利きの中村俊輔や名波浩に憧れていたが、東海大仰星高2年時にMFからサイドバックに転向。そして大阪体育大に進学し、坂本康博監督との出会いが、運命を大きく変えた。
 
 サッカーに適した身体の使い方を追求し、個性的な指導を行なっていた坂本監督の下、眠っていたスピードが開花した。
「つま先立ちのジャンプをずっとやらされていた。練習前に1000回とか。その当時は辛いとしか思っていなかったけど」
 
 足が地面に付く際、つま先から着地することで足の裏全体を使って地面を蹴るランニングフォームを叩き込まれた。「走り方が軽くなった」ことに、身体的な成長も加わったことでスピードは飛躍的にアップした。
 
 元々持っていた豊富な運動量に、スピードが加わって大学サッカー界きっての攻撃的サイドバックとして台頭。この一芸がスカウトの目に留まり、2011年にG大阪入り。プロ入り後も13年に長谷川健太監督がG大阪の監督に就任し、課題だった守備面を徹底的に鍛えられ、15年には日本代表入りも果たすなど着実に成長を遂げてきた。
 
 JではG大阪のレギュラーとして確かな実績を積み上げてきたが、自身が目標とするワールドカップ出場には、世界での経験が足りないことは本人が一番痛感している。「G大阪では、僕は黙って走るだけ」と語るように、強い自己主張や、リーダーシップを発揮するようなタイプではない。
 
 お腹が弱く、すぐに腹痛を起こすため「海外の食事は苦手。リオにもパンを持っていかないと。日本のパンは最高なので」と語るなど、『へたれキャラ』を覗かせることもしばしば。
 
 それでも今でははっきりと、日本代表不動の左サイドバック・長友(インテル)を目標に挙げるようになった。
「五輪で通用しなければ世界では通用しない。普通にやっていたのでは、長友さんを超えられないと思うので」
 
 重圧のかかるオーバーエージを引き受けたのも、もっと成長したいという強い思いがあったからだ。
 
 藤春は大学4年時、プロ入りの可能性が出てきた頃に、父・末廣さん(享年55歳)を亡くしている。拡張型心筋症を患い、入退院を繰り返しながら5年以上の闘病生活を送った末廣さんは、亡くなったその日まで勤務先となる東大阪市の工場で、仕事をしていたと言う。
 
「お父さんは(余命)あと1年と言われてから5年、生きたんです。亡くなる前の1週間くらいは、仕事でもおかしかったみたい。物をこぼしたり、変なところでつまずいたり。おかしいのは自分でも気づいていたと思う。負けず嫌いやから、とお母さんは言っていた。だから最後まで仕事してたんかな」
 そう思い出を語る男は、確かに父から受け継いだ気性を持つ。
 
 G大阪のチームメートで元日本代表MFの今野は、藤春を高く評価するひとりだ。
「スピードなら長友以上だと思う。普段はそんなに自分から話をするタイプじゃないし、何を考えているのか分かんないけど、特に代表に入ってからは、サッカーでは誰にも負けたくない、って思っているんだなと感じるようになった」
 
 G大阪・長谷川監督も「五輪を経験して、さらに伸びる可能性はある。日本代表のレギュラーを目指して欲しい」と期待をかけ、チームから送り出した。
 
「五輪に出る以上、ひとつでも上を目指して、金メダルを取って帰ってきたい。どれだけ通用するか、戦う相手は強いほうがいい」
 出発前にこう抱負を語っていた藤春。
 
 相手が誰であろうが負けたくない――。そんな思いを胸に秘めた27歳が、自らの可能性を信じ、初めての世界大会に挑む。