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 夏にモンゴルの平原で日ソ両軍の大規模な武力衝突が発生し、秋には第二次世界大戦が始まった1939年の真冬。北海道の猿払村沖でソ連の貨客船インディギルカ号が座礁、転覆し、多くの犠牲者を出した。猿払村の人々は生存者の救助に尽力し、第二次世界大戦後は日ソ友好の先駆けとして顕彰されてもいる。しかし、事故当時には船長が乳児を抱えた女性を含む一部の乗客を船内へ置き去りにしたり、ソ連当局も厳寒の海で消耗していた生存者を早々に帰国させたり、挙句に船内などへ取り残された遺体を回収することなく放置するなど、不可解かつ人道に反する行動が目立った。

 とはいえ、太平洋戦争からソ連の対日参戦、敗戦という時代の流れもあって、事故当時の不可解な出来事については有耶無耶にされた。むしろ、猿払村の人々が献身的に遭難者を救助し、北海道などの関係者が当時の微妙な日ソ関係とは無関係に惜しみない援助を与えたことが美談とされ、長く語り継がれていったのである。

 しかし、インディギルカ号の謎について、手がかりとなる情報が全く無かったわけではない。たとえば1976年に三一書房から翻訳出版されたロバート・コンクエストの「スターリンの恐怖政治」には、マガダン市のナガエヴォ港とウラジオストク港を結ぶ航路に就航するインディギルカ号という貨客船が紹介されている。驚くべきことに、同書によればインディギルカ号はマガダンを経由してシベリア奥地のコルイマ鉱山へ受刑者を護送する囚人船であり、遭難時に船長が置き去りにしたのは流刑者たちとされていた。

 ところが、衝撃的な内容を含む本が翻訳出版されたにもかかわらず、日本では囚人船としてのインディギルカ号はほとんど注目されず、ただ不幸な海難事故とその犠牲者、そして献身的に救助した地元民という図式が固定化され、より盛んに顕彰されていった。これは、東西冷戦期の政治対立によってソ連に関する行事などから当事者に都合の悪い情報が排除されたためとも、単なる当時の調査、研究能力の限界とも推測されている。だが、いずれにしても日本においては1990年代に至るまでインディギルカ号の就航状況や、その役割に対する関心は低く、ゴルバチョフ政権における情報公開が始まってもなお、しばらくはその傾向がつづいたのである。

(了)