『ゴジラとエヴァンゲリオン(新潮新書)』(長山靖生/新潮社)

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 私が初めて『ゴジラ』映画を観たのは、劇場公開後のテレビ放送だった。すでにその頃のゴジラは悪の怪獣や宇宙人から地球を守る「正義の怪獣」であり、後になって観た『モスラ対ゴジラ』においてゴジラが倒されるラストに、子どもの私は大変なショックを受けた。しかし、そもそものゴジラは水爆実験によって誕生した怪獣という設定であり、第1作は戦争や核兵器の恐ろしさと愚かさをテーマにしたものだ。

 そのゴジラ作品の変遷について『ゴジラとエヴァンゲリオン(新潮新書)』(長山靖生/新潮社)では、特撮は大人の観客を対象にした作品から次第に子ども向けへとシフトしていき、漫画映画とも呼ばれたアニメは子ども向けから大人の鑑賞にたえられる作品が作られるようになり、特撮とアニメの進化は逆の過程を辿ってきたと指摘している。

 そして、この夏に劇場公開された『シン・ゴジラ』の総監督を務め『エヴァンゲリオン』も手掛けている庵野秀明は、幼少期から円谷プロの特撮に親しんできたわけだが、「テレビが自分たちの現実だった」と語っており、手掛ける作品には好んでパロディやオマージュをちりばめているように見受けられる。しかし、『ゴジラ』第1作が「無から存在を作り出そうとする」苦労の連続から生まれたのに対して、「何をやっても先行作品のパロディになってしまう」苦悩が呪いのようにつきまとう。それは自身の代表作である『エヴァンゲリオン』も同様で、テレビアニメとして誕生した『新世紀エヴァンゲリオン』は旧劇場版を経て新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』へと再構築されることになったのだが、その製作動機は「何を企画してもエヴァに似てしまう。それならいっそ、もう一度作ろう」だった。

 新劇場版は断定されてはいないものの、旧作と同一の時間軸上で物語が繰り返されていることが作中で示唆されている。繰り返される『エヴァ/ヱヴァ』と、終わりを宣言されながら何度も蘇る『ゴジラ』。著者はそれを、「物語に死者が召喚される理由」は「生者の未練」であり、呼ばれし者の「再臨の理由」は「復讐と赦し」だと説く。だからファンの呼びかけに、ゴジラは戦争を忘れ科学を過信する日本人への復讐者として立ち現われ、EVA(エヴァ/ヱヴァ)は何度も同じ目に遭いながらも立ち上がる主人公を赦す。そんな二つの作品の共通点は、「輪廻の業に囚われてやり直しを強いられる」ことであり、著者はそこに「無間地獄と「希望」を見出した。

 歯学博士でもある著者は、『シン・ゴジラ』のサメのように何重にもなっている歯に関心を持ったようだが、私は宮崎駿の血脈(けちみゃく)に興味が湧いた。というのも、『風の谷のナウシカ』で巨神兵の原画を担当した庵野は、作中の登場人物の一人を主人公にした『クシャナ戦記』という企画を持ちかけるも宮崎に断られ、『未来少年コナン』の続編の企画がスタジオジブリで『天空の城ラピュタ』として再生する一方、NHKに残された元の企画案から派生した『ふしぎの海のナディア』の監督として招聘された奇縁があるのだ。そして、長編作品からの引退を表明した宮崎の最後の作品『風立ちぬ』に声優として起用された庵野は、一部のファンの間では宮崎の後継者とも目されている。『シン・ゴジラ』の歯や予告編で熱線を吐こうとする様子は、短編作品『巨神兵東京に現わる』において特撮で再現しようと試みたように、今度はゴジラでやろうとしているように思える。

 あとがきで著者が、人生の選択として「特撮とアニメ、どちらかを選べ」と問われたらどう答えますかと読者に提示しているが、もちろん答えは決まっている。「両方ともお願いします」だ。

文=清水銀嶺