美しく大きさと形がそろったクロワッサン

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 岐阜県高山市に、全国から観光客と弟子入り志願者が集まるパン屋がある。パン職人のワールドカップといわれる「クープ・デユ・モンド」で3位に入った成瀬正さんが腕を振るう「トラン・ブルー」だ。聞けば、個人店ながら、高山市を訪れる観光客が訪れる“名所”になっているらしい。

 成瀬さんのこれまでの歩みを紹介しておこう。高山市内で100年以上続くパン屋の4代目。父は学校給食用のパンを製造していた。大学を卒業後、都内の老舗ホテルなどで修業した後にUターン、1989年に高級志向のパンを扱うトラン・ブルーを開店した。

 「フランスには全国に地元の水や食材を生かしたパンを焼く職人がいる。自分も故郷で愛されるパン屋になろう」(成瀬さん)という思いから、都市部への出店の誘いを断り、高山で技を磨いてきた。

 店内に入ると、黄金色のクロワッサンが整然と並んでいる。27層に折りたたんだ生地が均一に膨らみ、香ばしく焼き上がっている。触れると表面が崩れてしまうので、客は欲しい数をスタッフに伝えて包装してもらう。フランスパンの仕上がりも美しい。焼く前、きれいに膨らませるためにクープという切れ目を入れ、焼き上がると木の葉のような形になる。トラン・ブルーのパンは、クープの大きさと形が見事にそろっているのだ。

「クロワッサンとフランスパンの出来で職人の腕が分かる」(成瀬さん)と言われ、いろいろな店の商品を食べ比べてみた。すると、多くのクロワッサンはサクサク感を出そうとして焼き過ぎ、外側がこげ茶色になり、苦みが出ている。また、焼きが甘く、サクサク感に欠けるものも……。フランスパンのクープがそろっている店は、なかなかお目にかかれない。

 トラン・ブルーではパンを縦横きっちりそろえて並べている。商品の回転が早い店ならば、二段重ねや山積みにするが、碁盤の目に沿って置いたよう。だからこそ、大きさや形、焼き上がりの色がそろっているのは一目瞭然だ。フルーツを盛ったデニッシュは、やや小ぶりでケーキのような繊細さ。食べる前に視覚が刺激され、「あれも、これも食べたい!」と思ってしまう。

「うちのパンを見て、“わぁー!”という声が上がればうれしい。私たちは精神を集中して生地を切りそろえたり、フルーツを盛ったりしています。いびつな形のパンは店頭に出しません。美しさはおいしさにつながります。また、トングを伸ばす角度に合わせて商品を斜めに置いています。店頭に並ぶ姿から逆算して手順を工夫します」(成瀬さん)

 都市部から遠く離れた地方の小さなパン屋には、妥協なきパン作りの技と、きめ細かい気配りがあった。オーブンから焼き上がったばかりのパンが随時、運び出されてくる。店内にいる間、嗅覚はずっと刺激され続けていた。「売れ筋商品は何度も焼き上がるので、熱いうちに提供するのが鉄則」と成瀬さん。客はホカホカのパンを受け取る。家に着く前に我慢し切れず、車中で一口ほおばった客は少なくないだろう。記者もそのひとりである。まず視覚、次に嗅覚、口に入れば聴・触・味覚と、五感を満足させてくれるのがトラン・ブルーのパンだ。

 都市部や海外に出ず、高山でひたすら技を磨いてきた成瀬さんは、世界最高峰の舞台「クープ・デユ・モンド」で高い評価を受けた。2005年大会の日本代表となり、本大会で日本は3位と健闘した。個人経営の店の職人としては初の代表選出であり、当時は業界の話題をさらった。監督としても12年の大会に出場し、日本を優勝に導いている。

 成瀬さんにあこがれ、「スタッフになりたい」という若者は後を絶たない。すでにトラン・ブルーを巣立った13人が故郷に店を構えている。

 店内から厨房を見ると、若者が真剣な表情でシェフの手元に目を凝らし、生地の膨らみ具合を観察していた。忙しさはピークのはずだが、怒号が飛び交うような殺伐とした雰囲気ではない。適度な緊張感が漂い、スタッフはきびきびと働いている。四方を山々で囲まれた高山で、真摯に技を磨くパン職人の鍛錬の場……トラン・ブルーは、そんなイメージである。

 トラン・ブルーの存在を教えてくれたのは、都内在住の知人だった。「テレビ番組でトラン・ブルーを知り、昨年の夏休みは白川郷と高山に行きました。パン屋さんまで徒歩で行けるホテルに宿泊、早朝に整理券を取りに行き、念願のパンを食べることができました」とのこと。彼女にとっては、「パン屋こそ高山観光の目玉」だったというわけだ。

 高山市はフランスの旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で三つ星が付いて以来、国内外からの観光客が増加の一途をたどり、年間約400万人が訪れる。トラン・ブルーにも世界各国、全国各地から客が押し寄せ、県外客の数は約8万人に。今や世界遺産・白川郷に負けない人気の観光地といえるかもしれない。(ライター・若林朋子)