『意識はいつ生まれるのか』(マルチェッロ・マッスィーニ、ジュリオ・トニーニ:著/亜紀書房)

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 我々は、意識という言葉を頻繁に使う。意識的・無意識・意識がある(ない)などの言葉を一度も聞いた事がない人はおそらくいないだろう。改めて言うまでもない事だが、我々人間には意識というものがある。意識とは、小難しく言うなら、物を見聞きし、考え、感情を表出させ、言葉を発する事を行う主体の事だ。しかし、この意識というものについて、なぜこれが存在しているのかという事を考える事はあまりないと思う。それを考えているのが『意識はいつ生まれるのか』(マルチェッロ・マッスィーニ、ジュリオ・トニーニ:著/亜紀書房)である。

 まず、我々はどのような時に相手に意識があると感じるのだろうか。例えば、相手が友人知人などの人間である場合は、これは確実に相手にも意識がある事が前提になるだろう。では、犬や猫などの動物はどうか。こちらも、相手に意識がある事、こちらの言う事を理解してくれている事を前提に言葉をかける人は多いだろう。しかし、相手が……例えば、壁ならどうか。壁を相手に話をして、壁が自分の言っている事を理解してくれている、つまり壁に意識があると思う人は、おそらくほとんど居ないと思う。なぜなら、壁はこちらの言葉に対し、絶対に何の反応も示さないからだ。相手が人間であれ犬猫であれ、とにかく自分の言動 に何らかの反応が返ってくるならば、それをして意識があると判断しているという事だ。

 では、相手が機械ならばどうだろうか。それもただの機械ではない。こちらの言葉に反応し、話しかければ音声が返って来て、用件を伝えればそれを実行してくれる……そんな機械である。実際、そういうアプリケーションも存在しているが、こういった機械を前にして、さて我々はそこに意識が“ある”と思うだろうか、それとも“ない”と思うだろうか。先述した意識の有無を判断する条件を考えるならば、自分の言葉に反応を返してくれる時点で、意識があると思うと考えるのが自然だろう。しかし、残念ながら機械に意識はない。件のアプリケーションでも、例えばそのアプリケーションと電話越しに会話をしたとして、さて相手が機械であると気付かない人が居るだろうか。おそらくは居ないはずだ。会話が始まって、最初の二言三言はまだ良いとしても、会話が続けば、確実に文脈がつながらなかったり、受け答えがちぐはぐになったりする時があるだろう。これこそが、機械が意識を持っていない証明であり、人間が精密な機械以上に複雑な意識を持っている事の証拠でもある。

 では、機械と人間の意識……ひいてはそれを生み出す脳との違いは、一体何なのだろうか。なぜ、機械は人間の意識のように複雑な思考を持ちえないのだろうか。その謎を解く鍵となる理論が存在する。統合情報論というものがそれである。この論では、ある身体システムは、情報を統合する能力があれば、意識があると定義されている。逆に言えば、情報を統合する能力がなければ、その身体システムには意識がないという事だ。ここで話を機械と人間の脳に戻そう。まず人間の脳の場合だが、これはあらゆる情報を意識という土台の上でひとまとめにする事を可能にしている。我々が普段意識と呼んでいるものは、ようは膨大な情報の集合体であり、喜怒哀楽の感情を始め、今日は何を食べようか明日は何を着て行こうかなどの思考に関する情報や、右手の動き左手の動き足の動き首の動きといった、身体に関する情報を統合させ、ひとまとめにしたものこそが(統合情報論で言うところの)意識だという事だ。一方で、機械の場合はそうではない。機械も多くの情報を処理する事ができるが、その処理プログラムはひとつひとつが独立している。動画アプリは動画の情報しか処理できないし、メール機能でテレビの情報を見る事はできない。機械の場合、情報系統は全て独立しているのである。しかし、人間の意識の場合、例えば食事を楽しみながら、つまり食べ物の味という情報を処理しながらでも、テレビの事を考えてその情報を処理できるし、そこに何の矛盾も感じないだろう。これは、意識の中でそれぞれの種類の情報が統合されているからに他ならない。機械が意識を持てないのは、この情報の統合を行えないからだというのが統合情報論の説である。

文=柚兎