「したたかじゃない女性なんていない」小池百合子、へたれ男たちとの勝負史24年

写真拡大

「やっぱり勝負しないとイヤなんです」

小池百合子からそんな言葉を聞いたのは、11年前のことだ。

郵政民営化をかけた2005年の選挙で、「刺客第一号」として圧勝してから11年。今度は都知事選で次点に100万票以上の大差をつけた。勝因は何だろうか。政界進出して24年。その間繰り返してきた彼女の勝負の歴史に、答えがあるだろう。

21歳で第四次中東戦争をカイロで経験し、匍匐前進などの軍事教練を受けてきた小池百合子。国会議員でおそらく唯一戦争体験がある女性と、他の議員たちとの違いは戦い方から見えてくる。

安全に勝とうとしたがる人たち

細川護煕率いる日本新党ブームに乗って小池百合子が政界入りをしたように思われているが、それは少し違う。

1988年、テレビ東京『ワールド・ビジネス・サテライト』の初代キャスターに就任して高い評価を得ていた彼女には、複数の政党から政界入りの誘いが来ていた。小池に日本新党入りするよう口説いたのは、「朝日ジャーナル」の編集長だった伊藤正孝である。

伊藤は朝日新聞鹿児島支局の記者時代に、新人記者・細川護煕と同じ下宿で暮らした関係から、細川から新党立ち上げの相談を受けていた。アフリカ報道で知られる伊藤と小池は、『季刊アラブ』の編集を通して同志の関係にあった。そこで小池に白羽の矢を立てたのだ。

しかし、日本新党はすぐにブームを起こしたわけではなく、実は結党時に危機に立たされている。全国から多くの賛同者が集まったものの、いざ選挙となると、ほとんどの者が立候補に二の足を踏み、「細川さんが当選したら、自分も出る」と様子見を決め込んだ。つまり、勝ち馬に乗れるとわかった段階で、来年の選挙なら出てもいいと誰もが思ったのだ。

候補者がそろわない中、伊藤正孝の口説きをためらっていた小池が突然、手を挙げた。

「自分が身を投じたら、誰もが乗ってくるだろう。このチャンスを生かしてあげないと、党が潰れてしまう」と、小池は当時のことを私の取材で回想している。

92年7月の参院選で細川や小池ら日本新党から4人が当選。翌年の衆院選で細川や小池は鞍替えをし、この時、一気に35人が当選。最初に飛び込むことで勢いをつくり、党も小池本人もイニシアティブを握り、細川政権の道筋をつくったのだ。

勝負する土俵を変える

今回の都知事選に立候補した山口敏夫と小池百合子にはちょっとした因縁がある。94年、山口敏夫は小池ら日本新党の議員7人を六本木の中華料理店に連れて行き、そこで小沢一郎(当時、新生党代表幹事)と引き合わせている。

小沢と小池は安全保障論で意気投合し、94年に日本新党、新生党、公明党が合併して誕生した新進党で、党首と補佐役という関係になった。しかし、次の小池の勝負となったのが、小沢との決別だろう。

新進党は98年に解党。小沢は自由党を率いて、小池も自由党に合流したが、99年、自由党は自民党による水面下での猛烈な切り崩し工作を仕掛けられる。

「小池さんには残ってほしい」。小沢は自由党幹部に「小池残留」の指示を告げ、彼女に「近畿ブロック・比例」という条件を提示した。しかし、残留工作は失敗。彼女は保守党の結成に参加した。彼女は残留しなかった理由をこう言っている。

「私は地べた(小選挙区)で勝負したかった。比例ではやりたいことができなくなる。やっぱり勝負しないとイヤなんです」

彼女は「政界渡り鳥」という揶揄を非常に嫌るが、政党を渡り歩くというよりも、勝負を張る舞台を探していると言った方がいいだろう。

結成された保守党は海部俊樹、扇千景など大物が多い小所帯だったため、彼女は現場仕事の多くを任され、肩書きは22にも増えた。「もう体が壊れる」と、保守党を離脱。