小池百合子都知事当選で改めて考える青少年健全育成条例

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東京都知事選の投開票がきのう7月31日に行なわれた。結果はすでに周知のとおり、元自民党衆院議員の小池百合子が当選した。この選挙戦中には、小池候補は秋葉原での街頭演説で「東京をアニメランドにする」という構想を掲げ、話題を呼んだ。もっとも、これについては、2010年に具体的な表現の規制にまで踏み込んで改定された「東京都青少年の健全な育成に関する条例」とのかねあいから、冷ややかな声も聞かれる。


東京都の青少年健全育成条例が制定されたのは1964年、ちょうどオリンピック開催の年で、これにともない不健全図書の指定制度が導入されるなど取り締まりが行なわれてきた。はたして新都知事は条例に関してこれまでの路線を踏襲していくのか、それともさらに規制や取り締まりを強化するのか。出版社をはじめメディア各社の集中する東京都だけに、全国におよぼす影響も大きい。2020年のオリンピック開催もあいまって今後の展開が気になるところだ。

先ごろ中公新書より『革新自治体 熱狂と挫折に何を学ぶか』を刊行した政治史学者の岡田一郎は、地方政治に目を向けたそもそものきっかけとして、例の東京都の青少年健全育成条例改定にまつわる騒動をあげている。本書のあとがきによれば、条例改定に反対の立場から問題を追いかけるうち、地方政治について何も知らないことを痛感し、自分なりに勉強を始めたという。そのせいか、本文中にも、青少年健全育成条例について興味深い記述がちょこちょこ出てくる。

たとえば、1950年から78年まで京都府知事を務めた蜷川虎三は、青少年健全育成条例の制定に最後まで反対し続けた。これについて著者は、蜷川の著書から「仮に学校で生徒同士がキッスしたっていいじゃないか、それだけ成熟してんだから」との言葉を引き、《条例により青少年の行動に制限をかける考え方に違和感を持っていたのかもしれない》と推察する。京都府で青少年健全育成条例が制定されたのは蜷川の退任後の1980年で、47都道府県のうち46番目の制定だった。

東京都でもまた、1967年に経済学者の美濃部亮吉が知事に就任すると、不健全図書の指定が謙抑的になったという。

「革新自治体」とは何か


さて、ここまであげた蜷川虎三も、美濃部亮吉も、社会党(現・社民党)と共産党という革新政党の支援を受けた知事である。彼らのような首長(知事あるいは市長)を擁する自治体は「革新自治体」と呼ばれ、1960年代から70年代にかけて大都市圏を中心に全国に誕生した。1974年1月1日現在で、革新知事は東京都の美濃部、大阪府の黒田了一(在任期間は1971〜79年)を含む7人、人口10万以上の市163市のうち47市長が革新市長だったというデータもある。

しかしそれほど全国に広がった革新自治体の実態について、きちんと後世に伝えられているとはいいがたい。これについて『革新自治体』は多くの資料から再検証している。「革新自治体の時代の始まり」については諸説あるものの、著者の考えでは、やはり1967年の美濃部都政の誕生こそその始まりだとされる。美濃部都政は79年まで3期12年にわたり続き、その政策はこのあと生まれた革新自治体に大きな影響を与えた。

革新自治体が各地に誕生した背景には、高度経済成長期にあって深刻化していた公害のほか、大都市へ急激に人口が集中するなかで、住宅・文教施設・上下水道などの生活基盤の充実化が、経済発展に必要な道路・鉄道など生産基盤の整備とくらべると著しく遅れていたことがあげられる。美濃部亮吉をはじめ各首長は就任するとさっそくこれら問題に取り組んだ。東京都では1968年に公害防止条例が制定され、事業者に厳しい公害防止義務が課された。翌69年には70歳以上の高齢者の医療費が無料化され、また高度成長の陰で存在が忘れられていた心身障碍者のため諸施設・制度が整備されるなど、福祉政策も積極的に推し進められた。

「革新自治体=財政難」というイメージは誤り?


これら東京都の政策は、高度成長にともなう潤沢な税収入によって支えられていた。しかし、1973年の石油危機などを機に不況に入ると、都はしだいに財政難へと陥っていく。それゆえ、革新自治体に対しては、「福祉にカネを使いすぎたうえに、公務員に甘く人件費がかさみ、財政難を引き起こした」というイメージがいまなお強い。だが、これはあくまで美濃部都政の末期の印象からで、必ずしも革新自治体すべてにはあてはまらないらしい。たとえば京都府の蜷川虎雄も横浜市の飛鳥田一雄(在任期間は1963〜78年)も退任時には財政を黒字にしていた。

飛鳥田の場合、《かなり初期から「社会福祉万能主義からの脱却」を唱え、社会福祉の充実だけでなく、総合的な都市政策を革新首長は打ち出すべきであると主張》していた。現在、横浜の名所となっているみなとみらい21地区や横浜ベイブリッジは、飛鳥田市長時代に、港北ニュータウンや地下鉄の建設とともに総合的な都市政策として計画されたものである。

同じ革新自治体でも、このように政策もその成果もさまざまであった。しかし1979年の統一地方選挙、東京都と大阪府の知事選で革新候補がそろって敗北を喫したことが、全国的な革新自治体の終焉へとつながっていく。この背景には、その少し前から社会党と共産党の足並みが乱れていたこと、また公明党・民社党といった中道政党と社会党のあいだで連携が模索されながらも実現しなかったことがあげられる。このうち社会・共産両党の不和は、有権者の不信感を高める結果となった。『革新自治体』は、財政破綻よりもむしろこのことのほうが革新自治体の問題としては大きいと指摘する。

社会党内では、書記長や副委員長を歴任した江田三郎が公明・民社両党との連携に積極的だった。しかし党内の強い反対から江田は1977年に単独離党し、社会市民連合(のちの社会民主連合=社民連の前身)を発足させるも、その直後に死去してしまう。公明党・民社党は結局このあと、自民党と連携して地方の首長選挙を戦うことになった。社会党もまた共産党と組まず、自民・公明・民社の推す候補に相乗りすることで、少しでも利益の配分にあずかる道を選んだ。こうして保守対革新という構図は、地方選挙から失われていったのである。

「名君」まかせの住民たち


『革新自治体』の終章で著者の岡田は、「革新自治体の時代」の問題点としていまひとつ、《革新自治体が首長任せの有権者の性質を変えられず、むしろ促進したとさえ言える点》をあげている。そしてこれについては首長だけでなく、住民の側にも問題があったのではないかと示唆する。

革新自治体の首長やブレーンの多くは、自治体レベルでの直接民主主義を志向していた。前出の飛鳥田一雄はこの実現にあたって、首長が住民の要望を聞いてかなえるだけという「名君民主主義」に陥ってはいけないと戒めていたという。しかし残念ながら、実際に住民集会を開いても、住民は自分たちの要望を述べるばかりで、互いに意見を闘わせて妥当な結論に達するということにはならなかった。

このような傾向は今日でも見られるのではないか、と著者は問いかける。かつて革新自治体の首長を熱狂的に支持した人々と、その後の改革派と呼ばれる首長たちを熱狂的に支持した人々は《思想信条こそ大きく異なるが、自分たちで問題を解決しようと考える前に、自分たちの要望を聞いて実現してくれる「名君」の出現を期待している点では通底しているように思われる》というのだ。

今回の都知事選でもまた、「名君」を期待する声、あるいは「名君」となりそうな候補がいないことへの失望が有権者から聞かれた。しかし著者の問いかけに応じるなら、むしろ本番は選挙が終わってからであり、これから考えるべきは、新知事の掲げる政策にいかにかかわっていくか、ということになるのではないだろうか。
(近藤正高)