今夜9時より、NHK総合テレビで終戦スペシャルドラマ「百合子さんの絵本―陸軍武官・小野寺夫婦の戦争―」が放送される。このドラマは、第二次世界大戦中のヨーロッパで陸軍武官として諜報活動にあたった小野寺信(まこと。香川照之)と、その妻・小野寺百合子(薬師丸ひろ子)の実話にもとづくものである。百合子夫人は、夫の活動に協力し、暗号電文の作成および解読の作業を行なった。NHKの朝ドラが典型だが、戦時中を舞台にしたドラマでは、たいていヒロインは銃後を守る役どころなのに対して、百合子夫人は夫とともに最前線で戦争に参加した点が異色といえる。


小野寺信は1941年1月、スウェーデンの首都ストックホルムに赴任した。海外赴任する陸軍軍人のうち武官だけはその国の外交団に入るため、夫人帯同が慣例だったという(小野寺百合子『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』共同通信社、1985年)。このとき夫妻は、4人の子供のうち3人は夫の妹夫婦に預け、一番下の息子だけを連れて現地に赴いた。

この2年前、1939年9月には、ナチス・ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発している。小野寺の任務は、中立国だったスウェーデンにあって、近隣のソ連やドイツの動きを探り、そこで得た情報を暗号化のうえ日本に電信するというものだった。

公式サイトの「番組紹介」によれば、今回のドラマでは、夫婦が日本の参謀本部に発信したうち「ヤルタ密約」に関する電文がクローズアップされるようだ。ヤルタ密約とは、大戦末期の1945年2月に、クリミア半島(当時ソ連領内)の保養地ヤルタでのソ連のスターリン、アメリカのルーズヴェルト、イギリスのチャーチルら連合国首脳による会談でひそかに交わされたものだ。その内容は、ソ連が日本に対しドイツ敗戦の3カ月後に参戦するというものだった。当時、日本はソ連と中立条約を結んでおり、敗戦色の濃くなるなかでソ連を介して米英と和平工作を図ろうという動きさえあった。

しかし、ソ連はこの年8月9日に参戦、同月の広島と長崎への原爆投下とあわせ、日本敗戦を決定づけた。ソ連軍は満洲(中国東北部)・朝鮮半島・千島列島へと進撃し、それは8月15日の終戦、さらに9月2日にスターリンが「勝利宣言」してからもなお4日まで続いた。この間、戦闘で多くの在留日本人が亡くなるばかりか、日本へ引揚げる途中で病死したり、家族と離れ離れになったりした人も多かった。またソ連軍の捕虜となった将兵が戦後も長らくシベリアに抑留されるなど、ソ連参戦によってさまざまな悲劇がもたらされることになる。

もしソ連参戦が事前にわかっていたなら、何らかの手を打つこともできたのではないか。そう考えると、小野寺の得た情報がいかに重大なものであったかがうかがえよう。しかし、小野寺の密約電に対して参謀本部からは何の返事もなかったという。それどころか戦後38年を経て、小野寺は、ある元外交官が、日本政府はヤルタ密約の内容を知らなかったと証言しているのに接して驚愕する。はたして自分たちの送った電報はきちんと日本に伝えられたのか。そんな疑いから、小野寺夫妻は密約電のゆくえを終生追い続けることになる。信が1987年、百合子が1998年に亡くなってからは、子供たちへその遺志が引き継がれた。

小野寺の密約電は日本にきちんと伝えられたのか?


今回のドラマの原案となる岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電――情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書、2012年)は、電報のゆくえを日本とイギリスに残されていた史料などから再検証したものだ。本書は、小野寺のヤルタ密約電は陸軍の参謀本部に伝えられながらも、その内容が戦略上、不都合な情報としてもみ消されたがゆえ、政府中枢にまで伝えられなかったと結論づけている。参謀本部は当時、ソ連を介しての講和をもくろみ交渉を進めていたため、そのシナリオを覆すようなソ連参戦などという情報は無視するしかなかったというのだ。

ただしこれには異論もある。吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』(NHK出版、2013年)は、小野寺電がヤルタ密約の内容を参謀本部に伝える第一報であったことを確証する。そればかりか、小野寺電による情報は、これに続いて各所から寄せられた情報とあわせて、参謀本部の対ソ判断の基礎となり、陸海軍間で共有されたという。そして吉見ら取材班が得た史料を精査するかぎりにおいて、密約の情報がもみ消されたとは言いがたいと断じている。

ただし問題は、その情報共有があくまで統帥側(陸海軍)にとどまり、外務省はじめ国務側にはほとんど伝えられなかったということだ。『終戦史』によると、陸海軍は(岡部が参謀本部の意向としてあげていた)ソ連仲介のよる講和をあくまで進めるべく、それにそぐわないソ連参戦の情報は外務省には伏せ、対ソ交渉に臨ませようとしていた可能性があるという。一方の外務省も、軍の情報収集能力を過小評価し、積極的な協力体制を築こうとはしなかった。《情報を共有すべき組織間がまったく情報の疎通を欠いていたことは、戦争終結のプロセスにおいて、決定的なマイナス要因となったであろう》との本書の見方は、細かい点はともかく、『消えたヤルタ密約緊急電』でのシステム批判とも通底している。

なお、『終戦史』は、2012年に放送されたNHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」の取材内容がもとになっている。今回のドラマでは、小野寺の密約電が日本でどのように扱われたものとして描かれるのか、おおいに気になるところ。ついでにいえば、NHKではかつて1985年、まだ存命中だった小野寺信に取材して彼の戦時中の和平工作の経緯を追ったNHK特集「日米開戦不可ナリ 〜ストックホルム 小野寺大佐発至急電〜」が放送されている。現在、上記のNHKスペシャルともどもNHKオンデマンドで配信中だ。

杉原千畝との意外な関係


さて、小野寺信にヤルタ密約の内容を伝えたのは、かつて彼が駐スウェーデン武官室で雇っていたポーランド軍の元情報将校で、その後ロンドンに移ってからも情報を送り続けていたペーター・イワノフ(本名ミハウ・リビコフスキー)という人物だ。

そもそもイワノフが、ドイツに占領された祖国からスウェーデンに脱出できたのは、ラトヴィア公使館付武官だった小野打寛と、そしてリトアニアのカウナス領事館の領事代理だった杉原千畝の協力により、ドイツ満洲国公使館発給の満洲国のパスポートを入手できたからだ。

杉原はこのあと1940年に、リトアニア国内の数千人ものポーランド人難民(その大半はユダヤ系だった)に日本通過のビザ(いわゆる「命のビザ」)を発行したことでよく知られる。じつは杉原がリトアニアに赴任した本来の目的は、ソ連やドイツの動向を探るための諜報活動だった。このころ小野寺とのあいだにも、ポーランド諜報組織を介して連絡があったという(白石仁章『諜報の天才 杉原千畝』新潮選書、2011年)。

その杉原と小野寺が戦後、然る縁から一度だけ再会した。両者ともすでに公職を離れ、民間企業で働いていた。しかし二人は顔を合わせながらも、一言も言葉を交わすことはなかったという(前掲『消えたヤルタ密約緊急電』)。昔話から、うっかり諜報活動で得た秘密が漏れるのを避けるためだったのだろうか。

百合子さんの「絵本」とは何か?


今回のドラマでいまひとつ気になるのは、「百合子さんの絵本」というタイトルだ。ここにはどんな意味があるのか。これについて、小野寺百合子のもう一つの顔を紹介しておきたい。じつは彼女は、フィンランドの児童文学者トーベ・ヤンソンの『ムーミン』シリーズをはじめ児童文学の翻訳者でもあった。『ムーミン』の翻訳は、1969年にアニメ「ムーミン」の放送が始まった際、北欧文学者の山室静に推薦されて出版社から依頼されたという(小野寺百合子『私の明治・大正・昭和 戦争と平和の八十年』共同通信社、1990年)。

山室静とのかかわりはそもそも、百合子が同人誌でスウェーデンのエルサ・ベスコフという児童文学者の作品を毎号一作ずつ訳していたのが、山室の目にとまったのがきっかけだった。その後、百合子は山室編の全集のためエルサ・ベスコフの絵本のなかの詩を訳したのに続き、福音館書店から『ペレのあたらしいふく』をはじめベスコフの絵本の翻訳も手がけている。じつはベスコフ作品には、彼女が戦時中に日本へ置いてきた子供たちへの想いが込められていたという。ドラマのタイトルの「絵本」も、おそらくベスコフの作品を指すのではないか。詳細は放送で確認したい。

ところで、小野寺百合子の訳した『ムーミンパパの思い出』の冒頭にはこんな一節がある。

《世の中で、なにかよいこと、あるいは、ほんとうによいと思われることをしとげた人は、みんなだれでも、じぶんの一生について、書きつづらなければならないのです。それはその人たちが、真理を愛し、かつ、善良であるばあいのことですが》

ひょっとすると、彼女が夫の戦争中の活動を後世に伝えるべく『バルト海のほとりにて』という本をまとめたのも、似たような思いからだったのかもしれない。

「百合子さんの絵本―陸軍武官・小野寺夫婦の戦争―」
小野寺夫妻役の香川照之と薬師丸ひろ子のほか、歌人の佐々木信綱を加藤剛、駐ドイツ大使・原島浩(実在のドイツ大使・大島浩がモデル)を吉田鋼太郎が演じる。
脚本の池端俊策の代表作には、大河ドラマ「太平記」(1991年)のほか土曜ドラマ「足尾から来た女」(2014年)、ビートたけしが東条英機を演じた「あの戦争は何だったのか――日米開戦と東条英機」(TBS、2008年)などの歴史ドラマがある。演出の柳川強は、今回と同じく香川照之主演で「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」(2007年)を手がけている。制作統括は連続テレビ小説「あまちゃん」(2013年)などを担当した訓覇圭。
(近藤正高)