「これからさらに、少しずつ変わっていくのかな? ラオニッチだったり、ティエムだったり、ゴフィンも強くなったり......。少しずつ変わり始めているのは見えています」

 それが今年7月中旬の時点で、錦織圭の目に映っている「男子テニス界の景色」であった――。

 左脇腹の痛みのため、4回戦途中でコートを去る苦渋の決断を下したウインブルドン。だが、自らが戦地を去った後も、錦織は大会の動向にそれとなく目を向け、地殻変動の音を耳で拾っていたという。

「自分にとって、あんまりいいことではないですが......」

 そう認めるほど現状に焦燥感を覚えるのは、具体的に名を挙げた3選手......とりわけ、ウインブルドン準優勝のミロシュ・ラオニッチ(カナダ)と、全仏ベスト4のドミニク・ティエム(オーストリア)の足音を、すぐ背後に聞いているからに他ならない。

 ランキング上でもラオニッチは錦織に次ぐ7位で、ティエムは9位。今年1月からの獲得ポイントのみで算出する「レースランキング」では、ラオニッチが3位で5位の錦織の先を行く。そして錦織の背にピタリと胸をつけるのが、今季すでにツアー4勝を挙げている22歳のティエム。この2選手が、「少しずつ変わり始めている」景観の中核にいるのは間違いない。

 これら世界の変容は、今はまだ微かな気配や予兆の段階であるだろう。だが、この趨勢(すうせい)に拍車をかけかねない要因が、8月上旬のリオ・オリンピックである。

 リオ五輪におけるテニス競技は、8月6日から14日にかけて行なわれる。期間にすれば、わずか9日間――。しかし、毎週大会が組まれるテニスツアーのスケジュールでは、この9日間の捻出は、大きな"シワ寄せ"を生むことになる。

 わかりやすい例として、今年のウインブルドン後からリオ五輪までのATPツアースケジュールを、昨年のそれと比べてみよう。

 ウインブルドン後に最初に行なわれる「出場義務大会」はカナダ・マスターズ(ロジャーズ・カップ)であり、例年はウインブルドンの4週間後に開幕する。多くのトップ選手にとってこの4週間は、必要不可欠な心技体のメンテナンス期だ。欧州で3ヶ月間使い込んできた身体を休め、同時に過酷なシーズン終盤戦を乗り切るためにも、上位選手ほどこの期間をトレーニングに充てている。錦織もウインブルドン後の3週間は大会に出ず、8月上旬のシティ・オープンから再始動するのが常だ。

 ところが今年は、ウインブルドンのわずか2週間後に、カナダ・マスターズが開幕する。この"失われた2週間"の代償は、人気選手たちの不在という形で、何より明確に表れた。まずはウインブルドン優勝者のアンディ・マリー(イギリス)が、「疲労」を理由にカナダ・マスターズ欠場を表明。次いでロジャー・フェデラー(スイス)とラファエル・ナダル(スペイン)までもが、揃って不参加を発表した。

 ウインブルドン・ベスト4のフェデラーは、「これから先のスケジュールを考えたとき、もう少し休養が必要だと判断した」と説明し、ナダルは、「準備期間が足りない」ことを理由に挙げている。しかもフェデラーはその後、リオ五輪のみならず、今季の残りすべての大会を欠場することを発表した。

 今なおランキングは3位と4位につけるふたりではあるが、34歳のフェデラーは今年2月にひざを手術し、その後は腰の痛みにも苦しんできた。30歳のナダルは左手首に深刻な負傷を負い、全仏3回戦を棄権して以来、ツアーに姿を現していない。オリンピックのメダルは、テニス界に現存するタイトルや栄光をほぼすべて手にした両雄にとって、ツアーを犠牲にしてでも掴みたい栄誉だが、過密化するスケジュールはフィジカルに不安を抱えるベテランたちを一層、困難な状況に追い込んだ。

 その一方でオリンピックに背を向け、この世情を「下剋上の機」ととらえるのが、ラオニッチやティエムら勢いのある若手勢だ。現在ランキング50位以内に22歳以下の選手は、9位のティエムを筆頭に19位のニック・キリオス(オーストラリア/21歳)、23位のルカ・プイユ(フランス/22歳)、そして25位のアレクサンダー・ズベレフ(ドイツ/19歳)と4名いるが、このうちズベレフ以外の3人がオリンピックを欠場するのも興味深い。

 彼らにとって、トップ4のうち3選手までもが欠場するカナダ・マスターズは、ランキングポイントを荒稼ぎする千載一遇のチャンスだ。また、五輪期間中に開催されるロス・カボス・オープン(メキシコ)にも、ティエムをはじめとする五輪欠場組が顔を揃える。ここから先の1ヶ月間で、トップ20の顔ぶれや序列に変動が生まれる可能性は高い。

 もっとも、それら過密スケジュールの恩恵を受けているのは、よりランキングが下の選手たちも同様である。ウインブルドン以降の数週間は、同じ週に複数の大会が開催されるうえに上位選手は欠場しているため、各大会の選手層は必然的に薄くなる。そのため、この2週の間に行なわれた男女計12大会で、すでに5人のツアー初優勝者が誕生したのだ。

 このような混沌状態は、日本勢にとっても「ブレークスルー」の好機である。現在日本には、男子に西岡良仁、杉田祐一、ダニエル太郎、女子では大坂なおみ、奈良くるみ、尾崎里紗ら複数の選手が100位前後......つまりはグランドスラム本選出場の当落線上に揃っている。

 そのうち西岡と杉田は、先週開催のシティ・オープンに滑り込みで出場し、初戦を突破して貴重なポイントを獲得した。また、尾崎も同じくシティ・オープンに参戦し、自身初のツアーベスト8に進出。しかも彼女は初戦で、前年優勝者のスローン・スティーブンス(アメリカ)を破る金星を手にしている。これらの結果は単なるポイントのみならず、自信と経験値を彼・彼女たちに与えたはずだ。

 去る7月13日に行なわれた会見で、錦織はオリンピックについて、「カナダからブラジルに行き、また(北米に)戻ってくるので、スケジュール的には楽ではない」と吐露した。それはすべての五輪選手が抱える共通の悩みであり、五輪後の動きにも少なからず影響を及ぼすだろう。現に女子1位のセリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)は、すでに五輪翌週のシンシナティ大会の欠場を表明している。

 錦織が「少しずつ変わり始めている」と感じる、テニス界の景色――。それはオリンピックを変革期とし、今後さらに書き換えられていくかもしれない。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki