東日本大震災や熊本地震の際、台湾の人々が送ってくれた温かいエールや多大な義捐金に感動を覚えたという方は多いのではないでしょうか。なぜ台湾は日本を好きでい続けてくれるのか、メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』の著者で台湾出身の評論家・黄文雄さんが、日台の歴史を紐解きながら、その理由を解説しています。

【台湾】なぜ日本と台湾は過去最高の相思相愛なのか

● 台湾 最も好きな国は日本56% 過去最高

日本の台湾との窓口機関である交流協会が台湾で行った世論調査では、もっとも好きな国として日本を挙げた台湾人が56%となり、これまでの調査で過去最高となりました。

これまでも台湾は世界一の親日国として知られ、ずっと台湾人の「好きな国」のトップを走ってきた日本ですが、それにしても2位の中国(6%)、3位のアメリカ(5%)と10倍近い開きがあります。また、中国は韓国と並んで「嫌いな国」の1位、2位を競っていますから、実質的には2位はアメリカということになるでしょう。

台湾では昨年の日本への旅行者が初めて300万人を突破しました。この調査でもいちばん行きたい旅行先として日本を選ぶ人が42%とこちらもトップとのことです。

一方、「地球の歩き方」が日本で行ったアンケートでは、今夏の旅行先として台湾がハワイを抑えて人気ランキング1位となったそうです。これで台湾は昨年の夏に続いて2連勝とのこと(冬も含めると3連勝!)。

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ここ数年、日本では台湾ブームが到来しており、台湾のスイーツや料理、ドラマやキャラクターなども人気です。とくに夏は、台湾独自の定番スイーツ「マンゴーかき氷」を売る店が、東京をはじめ、各地に進出しています。

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王道のハワイを抑えて1位の人気を誇る台湾ですが、なぜそこまで日本人は台湾に行きたがるのでしょうか。「地球の歩き方」では、安全・安心・安楽がキーワードになっていると分析しています。たしかに台湾の三安(安全、安心、安楽)については、オーストラリアの「経済と平和研究所」の調査によれば、2014年からアイスランドに続き2位となっています。

日本社会も安全、安心、安定では「万邦無比」を続けてきましたが、2014年の調査では世界7位まで転落しました。その理由は、東日本大震災、さらには民主党政権時代の不作為、中国人による凶悪犯罪などの理由があります。

そして日本に代わり、アジアトップとなったのが台湾でした。しかも、1位のアイスランドの人口が30万人ほどであるのに対して、台湾は2,300万人を超えており、実質的には台湾が世界一の安全安心な国と見ていいでしょう。

とはいえ、韓国で日本人客が激減している一方で、台湾への観光客が急増しているのには、やはり日台の長年にわたる深い絆が関係しているのでしょう。韓国は「冬ソナブーム」の際には多数の日本人観光客が訪れたものの、あまりに反日活動がひどいため、日本人離れを招いてしまいました。

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1895(明治28)年、日清戦争の結果、下関条約によって台湾は清朝から日本に割譲されました。その後、第2次世界大戦で日本がポツダム宣言を受諾して台湾から去ったことで、中華民国によって占領され、現在に至っています。

しかし、日本による統治時代に近代化、文明化を果たした台湾人にとって、中国人の無知蒙昧ぶりは信じられないものがありました。たとえば、台湾は日本時代に上下水道が完備されましたが、大陸から渡ってきた中国人たちは、蛇口をひねれば水が出るのを見て、こぞって蛇口を買い、壁に取り付けました。そうすれば水が出ると本気で思っていたのです。

こうした本省人(元からいた台湾人)と外省人(大陸からやってきた中国人)の文化摩擦によって起きたのが、1947年2月28日の「2・28事件」です。発端は中国人の役人がタバコ売りの女性に暴行を加えたことにより、無知な中国人に支配されることに耐えられなくなった台湾人の怒りが爆発、各地で抗議デモが発生しました。国民党政府はこれを武力で鎮圧し、約3万人もの台湾人が殺害、処刑されたのです。

その時に発せられた戒厳令は1987年まで数え39年も継続され、知識人らに対する弾圧と恐怖政治が続きました。この恐怖政治は「白色テロ」と呼ばれ、1988年に李登輝総統が誕生して1990年代に民主化が実現されるまで、2・28事件については語ることすらタブーとされていました。

日本時代と中華民国時代の違いは、為政者の姿勢にも現れています。たとえば蒋介石の死後、台北の中心地の総統府前には、蒋介石を祀る巨大な中正廟が建立されましたが、棺は将来中国大陸へ帰葬するため、絶対に異域である台湾の土にはならぬという意味で、地面から三寸離して安置してあります。

それに対して、7代目の台湾総督であった明石元二郎は「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」という遺言を残し、その言葉通りに台北に埋葬されました。

ところが戦後、国共内戦の再燃で、中共軍に追われた200万人の中国難民が台湾に流れ込み、一部が台北三板橋の日本人墓地を占領して、明石神社や明石総督の墓石の上にまでバラック小屋をつくり、そこで半世紀近くも住みつきました。

陳水扁台北市長の時代になって、難民が強制占拠した違法建築がやっと排除され、公園につくり替えられ、明石総督の墓は、彼を敬慕する台湾人の募金によって、台北県三芝郷の山上に新しくつくられたのです。

台湾の土になろうとした日本人総督と、あくまで大陸反攻を夢見て、台湾の土になりたくないと考えた中国人総統とでは、台湾に対する覚悟が違います。

このように、多くの日本人は台湾の文明化に命を賭して挑んできました。たとえば、農業水利事業に貢献した八田與一、台湾糖業の発展に尽くした新渡戸稲造などは有名ですが、現在でも台湾人に尊敬されている日本人に「六士先生」がいます。

六士先生とは、台湾の芝山巌(しざんがん)で土匪(どひ)に襲撃され命を落とした6人の日本人教師のことであり、大義のために危険を顧みなかったその姿と気概が「芝山巌精神」としていまもなお多くの台湾人に語り継がれているのです。

台湾における日本の教育改革は、戦後、「植民地教育」であるとよく非難されますが、私は小学校に入るまで母からよく「芝山巌精神」を聞かされ、「教育勅語」を暗記したものでした。そこには、戦後に非難されるような悪いイメージはありません。

明治28(1895)年6月、清国兵士によってさんざん略奪、放火された台北に無血入城してきた日本軍は、民家を借りてすぐに国語教習を開始しました。

この当時、伊沢修二学務部長は6名の学部員を引き連れ、台北城北部の八芝蘭にある恵済宮の寺廟に学務部を設置。そして、芝山巌学堂にて日本語教育をはじめたのです。開始当時の生徒はわずか7名でした。6人の教師の名は、次のとおりです。

楫取道明  山口県出身 39歳

関口長太郎 愛知県出身 39歳

中島長吉  群馬県出身 37歳

桂金太郎  東京府出身 37歳

井原順之助 山口県出身 24歳

平井数馬  熊本県出身 18歳

六士先生のひとりである楫取道明の母親は、吉田松陰の妹の寿子と小田村素太郎(後に揖取素彦と改名)との間に生まれた子でした。父は、松陰の後継者といわれ松下村塾の塾頭として活躍し、後に貴族院議員として男爵まで授けられています。

道明は華族に列せられながらも開化教育に燃え、「化外の地」にみずから進んで赴いた、台湾教育に献身するさきがけ的存在でした。最年少の平井数馬は、日本最年少の16歳の若さで高等文官試験に合格した優秀な人材でした。日本はこうしたトップクラスの俊英を台湾の教育のために送り込んだのです。

当時、六士先生らは芝山巌はいつ土匪が来襲するか分からない危険な場所であると、教え子たちから聞いて知っていました。教え子たちからは、早く逃げろとも勧められていました。しかし、当時の「先生」としては、逃げることなどできるわけがありません。なぜなら彼らは、開化教育に献身するという大義名分を持っており、日頃から生徒にもそう説いていたからです。

六士の大義名分を護る意志は堅く、次のようなことを常日頃から生徒に説いていました。

日本による台湾の占領は略奪の結果ではない。日本の天皇陛下と支那の皇帝陛下との条約によって決められたことであり、我が師に向かって敵するのは支那の皇帝に不忠を働くことであり、大義名分を知らぬことである。

確かに、この説には一理あります。国際法的には、下関条約によって台湾を日本に永久割譲することが決定したのです。この論理で考えれば、芝山巌から早く逃げろと言われても、生徒に向かって大義名分を説いている教師が、やすやすと使命を投げ出して逃げられるわけがありません。楫取道明は、その覚悟のほどを次のように言っています。

我々は平常生徒に向かって、大義名分を能く教訓して良民にしようというに、今匪賊が来たからといって逃げるとは何事ぞ、止まって彼らを説得するのが当然である。我らは国家のためには生命も惜しまぬということは常に言うておる。それに、我らが逃げたとなったら教育者の本分が立たぬ。

芝山巌事件は、教育開始から半年後の明治29年元旦に起こりました。6人の教師は、新年拝賀式に参列するため台北に向かっていました。しかし、その前夜未明に台北城は匪襲を受けていたため、渡し舟がありませんでした。

やむを得ず彼らは芝山巌に引き返しました。そして、正午近くになって再び山を降りようとした途中、運悪く百余名の土匪に遭遇してしまったのです。6名は事情を説明し話し合おうとしたが、相手は「話せば分かる」ものではなく、「問答無用」の輩でした。たちまち白兵戦となりましたが、多勢に無勢で6名と用務員1名(小林清吉・軍夫)は、あっという間に殺害されてしまいました。

殺された7名の首級は、首魁・頼昌の家の門前に掲げられたとも伝えられています。さらに、芝山巌伝習所内の教室や寝室などから、六士先生の所持金や運営資金はすべて奪われていました。

事件から8日後、首級のない遺体が発見されました。六士先生の遺灰は、それから半年後の7月1日、芝山巌に墓碑とともに安置され第1回の慰霊祭が行われ、彼らを祀る芝山巌神社も建てられました。こうして、六士先生と彼らの精神は、台湾における近代国民教育の鑑として、多くの人から敬われることになったのです。

その後も、台湾の開化教育に従事して殉職した教師は327名にも及びました。その悲劇に鑑み、日本開化教育は六士先生をモデルに聖職とされたのです。伊藤博文総理も、始政1周年の際に台湾を訪れ、「学務官僚遭難之碑」をみずから提案して、殉職した教師の記念碑を建てさせています。

しかし、戦後、国民党軍は台湾に入ってきてから、この「日本教育」のシンボルに対抗せんとしたのか「六士先生殉職」の記念碑をぶち壊し、墓碑銘をセメントで埋めてしまいました。その代わりに、特務のボスであった戴笠(雨農)を記念した雨農記念図書館を芝山巌に建てたのです。

戴笠とは、蒋介石お抱えの殺し屋で、暗殺などで政敵数十万人を葬った人物であり、終戦直前に原因不明の飛行機事故で墜落死しています。この記念図書館は、蒋介石ただ1人に忠誠を尽くすシンボルという意味合いがあったのです。ここにも「公」のために尽くす日本人と、「私」を最優先にする中国人という違いが現れています。

後になって、台湾籍日本人の書道家である陣内伯台氏が、セメントで埋められてしまった伊藤博文と後藤新平が揮毫した石碑を、丹念に時間をかけて復元させ、拓本をつくり六士先生の遺族に贈呈しました。私は陣内氏が苦心してつくった拓本を見たことがあります。彼に伊藤博文と後藤新平の2人の書道における筆力を尋ねたところ、「プロに負けない」と高く評価していました。

蒋介石の時代には芝山巌神社も打ち壊され、土匪が「抗日英雄」として民族英雄にでっち上げられました。それが中国人の「教育」です。そして、歴史捏造の記念碑がつくられて、台湾の祖国復帰と「反日抗日」の歴史が謳われたのです。しかし、もともと無理のある話ですから、矛盾も多いのです。

その一例が有名な匪賊の首魁であった簡大獅です。簡大獅は土匪を率いて日本の台湾総督府を悩ませたことで、蒋介石時代には抗日英雄とされました。しかし、清国に逃亡した簡大獅を、日本側の求めに応じて台湾に強制送還したのは清の政府だったのです。義人でも何でもなかったわけです。

現在の中国人と昔の中国人で評価があべこべになることはよくあることです。たとえば漢の武帝はその生涯において征伐戦争に明け暮れ、老後は太子軍と首都長安で戦いました。60年以上の征戦で人口が半減したため、『漢書』には武帝の祠を建てるべきではないという主張が述べられているほどです。ところが現在の中国人は、もっとも尊敬する「民族英雄」として、漢の武帝を挙げています。そこまでの価値観が逆転するわけです。

それはともかく、当時の国民党軍は、日本人墓地打ち壊しに夢中となり、記念碑も墓碑も銅像も何であろうと構わず壊しまくりました。中国では王朝が代わるたびに宮城、京師で大虐殺があるのが習慣であり、お決まりの行事のようなものでした。

そのため、六士先生の遺骨は国民党軍によって道端に捨てられ、神社も取り壊されましたが、地元の恵済堂の住職が無名の碑を建て、丁重に弔いました。「六士先生の墓」が再建されたのは、1996年6月1日でした。士林国民学校校友会の会長である林振永氏が中心となり、「芝山巌事件百周年」記念行事として盛大な式典が行われました。

当時の台北市長だった陳水扁氏も挨拶にかけつけました。日本からは、元労働大臣の藤尾正行氏ら34名が参加し、士林公学校卒の尼僧・柯宝祝住職が日本語にて般若経を唱え鎮魂の法要を行ったのです。

このように、日本の台湾統治はその覚悟からして違いました。私は拓殖大学の大学100年史の編纂に加わったことを機に、さまざまな史料にあたり、統計数字を計算してみましたが、19世紀末の台湾の学校(学堂)の学生数から計算して、台湾人の識字率は当時わずか0.6%しかなかったことがわかりました。また、1898年当時の朝鮮や清国にしても、就学率はいいところ2%程度しかありませんでした。

ところが1945年の台湾の就学率は70%を超えていました。しかも、それまでの「四書五経」だけの暗誦ではなく、台湾史上初めて国民教育と実業教育が行われたのは、日本時代に入ってからなのです。

そうしたことを知っているから、台湾人は日本への感謝や尊敬を持っています。それが世界一の親日国家の背景にあり、そうしたことが日本でも知られるにつれ、台湾へ行きたいと思う日本人が増えてきたのでしょう。

また、台湾人の日本好きは、なにも戦前を知る高齢者にかぎりません。むしろ若者たちのほうが親日であったりします。1990年代から台湾では「哈日族」(ハーリーズー)という日本大好きな若者たちの存在がクローズアップされてきました。第二外国語で日本語を選ぶ若者は90%台にも及びます。

戒厳令下、国民党政府は日本を称えることを禁じてきましたが、日本時代を知る人たちは、子どもや孫の世代に日本時代のことをこっそり伝えてきたのでしょう。そして言論の自由が認められると、一気に「日本好き」を公言するようになったのだと思います。そして親中派の馬英九政権から独立派である民進党の蔡英文政権に政権交代が行われたことで、台湾人の日本に対する親近感がさらに強まったと考えられます。

一方、日本時代を冷静に見ることができず、つねにルサンチマンを抱えている韓国人には、反日を克服することは容易ではありません。反日がないと韓国は存在できないのかもしれません。

もちろん台湾人の価値観も中国人とは天と地の差です。台湾では日本の軍人や警察官が神様として廟に祀られ、日本人観光客の観光スポットにもなっています。また、高雄市でも近年になって日本海軍兵士の記念堂ができています。台湾人と中国人の日本人観はそこまで違うのです。

日本と台湾はお互いに「訪れたい国1位」となり、相思相愛の状態です。しかも蔡英文政権になったことで、日台関係は今後もますます発展していくことでしょう。

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image by: NH / Shutterstock.com

 

『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』より一部抜粋

著者/黄文雄

台湾出身の評論家・黄文雄が、歪められた日本の歴史を正し、中国・韓国・台湾などアジアの最新情報を解説。歴史を見る目が変われば、いま日本周辺で何が起きているかがわかる!

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出典元:まぐまぐニュース!