五輪のオーバーエイジ枠に、藤春廣輝、塩谷司に続く3人目の選手として興梠慎三が決定したとのニュースを知ったのは、ユーロ2016取材中だった。

 素直に納得できた人、期待に胸を膨らますことができた人は、どれほどいただろうか。オーバーエイジ問題は、観戦のモチベーションに大きな影響を与える重要な要素。エッと肩すかしを食った気分に襲われた人は多かったはず。しかし、その空気が世の中に伝播することはなかった。表だった騒ぎはなにも起きなかった。

「しなやかさと、野性味を繰り返し発揮し続けられるタフさがある。ポストプレーも、裏へ抜け出すプレーも、引いた相手に対しても、カウンター攻撃にも適応できる。リオ五輪で間違いなく攻撃のバリエーションを増やすことができる選手。身体能力の高い相手にも、彼のしなやかさは効果を発揮するはず」

 とは、手倉森監督が語る興梠選出の理由だが、そのコメントをそのまま掲載するメディアが何と多いことか。その言い分に全面的に従ってしまった。早い話がそうなる。少なくとも意見が分かれる案件だ。大袈裟に言えば、候補者は限りく存在した。よって興梠でオッケーだとしても、独自の見解を加える必要がある。批評性ゼロ。為政者に対してあまりにも従順だ。重要案件を物わかりよく、右から左へ素通しする行為、簡単に納得することほど好ましくないものはない。サッカーへの愛を、僕はそこに全く感じない。

 まず「?」から入る。とりあえず問題視してみる。突っ込み所はないものかと首をひねってみる。メディアの役割はそこにある。とりわけサッカーは、その必要が大ありな、正解が見いだしにくいスポーツ。何事も意見が割れがちな競技特性こそが、面白さ、魅力なのだ。世界で最も人気を集める大きな理由の一つに他ならない。

 突っ込めば、その分だけ盛り上がる。喧々囂々の議論に発展する。世界を見渡せば、サッカー好きはたいがいお喋り好きで、そのコミュニケーション力にサッカー人気は支えられている。

 なぜ興梠なのか。オーバーエイジ問題で、盛り上がることができなかった日本。メディアの責任は大きいと見るが、そもそも、その気質がサッカーに適していない。日本サッカーの普及発展を妨げている大きな要素になっている。

 監督が「攻撃的サッカーだ」と言えば、それに従い、そのサッカーは攻撃的だと、何の疑いもなく報じようとする。これは、浦和レッズのペトロビッチ監督とメディアの関係だが、これでは言った者勝ちだ。監督の発言を、フィルターを通さず、そのまま世間に宣伝してくれるメディア。為政者にとっては都合のいいカモだ。

 サッカー専門誌はその昔、もう少し食い下がったものだ。サッカーD誌とサッカーM誌の時代だが、両者の比較では、D誌の方がよりうるさい存在だった。ファンはいまよりサッカー的な香りを味わうことができていた。

 物わかりがよすぎるというか。真面目でなくなったというか、一生懸命でなくなったというか。

 セカンドステージ最下位。年間通算順位17位。降格圏をさまよう名古屋グランパスは、久米社長と小倉監督がホームページ上で不成績を謝罪した。だが、その後の試合でまた敗れたため、今度はファンに向けて説明会を開くのだという。

 今回の名古屋グランパスに限った話ではない。帰路につかずスタジアムに居座ったり、選手、監督が乗るバスに迫ったりするサポーターに、社長、監督が直接頭を下げ、涙ながらに謝罪するケースを、Jリーグではよく見かける。

 僕の知る限り、これは日本特有の現象だ。欧州では見たことも、聞いたことがない。凋落著しいミラン、インテルでさえ、起きそうもない話だ。ウェッティ。センチメンタル。浪花節的なドロドロとした世界を見る気がするが、いつも気になるのは、こうした場合の地元メディアの立ち位置だ。