同年代の選手の成長を目にした槙野は焦りを覚え、自ら退路を断って海外挑戦を決めた。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

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 海外で結果を残すための大きな壁――槙野智章は2011年、移籍を果たしたケルンで苦しんでいた。

 生まれ育った広島を飛び出し、意気揚々と挑んだ憧れの地で、彼を待ち受けていたものはなんだったのか。日本へ再び活躍の場を移すまでの、波乱に満ちた1年に迫った。
 
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 槙野智章は、追い込まれていた。所属先が決まらぬまま新シーズンを迎えるかもしれないという、プロサッカー選手としての窮地に追い込まれていた。
 
 プロになったばかりの10代の話ではない。日本代表に選ばれるようになって1年と少し、その帆いっぱいに追い風を受け、順調なキャリアを送っていた2010年末、23歳の時のことだ。
 
 その年限りで満了となるサンフレッチェ広島との契約を延長せず、国内の3クラブから届いたオファーも蹴った。
 
 自らの意思で退路を断つ――。槙野はあえて自分を窮地に追い込んだのだ。
 
 すべては海外移籍のため、だった。
 
 もともと海外志向の強かった槙野が「海外に行かなければならない」という強烈な想いに駆り立てられるようになったのは、10年10月のことである。
 
 アルゼンチンとの親善試合を前に日本代表の合宿に参加した槙野は、南アフリカ・ワールドカップ後にヨーロッパのクラブに移籍した同世代の選手たちの、見違えるような姿にショックを受ける。
 
「それまで球際が強くなかった内田篤人や香川真司が『普通でしょ』って感じでバチバチやっている。長友佑都もプレーに自信が漲っていて『3か月でこんなに変わるのか』って驚いた。このままでは置いていかれると思ったんです」
 
 すぐに代理人に海外移籍の希望を伝えた槙野は、広島に戻るとまず、ロッカーの整理を始めた。移籍の準備のためである。さらに契約延長を見送り、国内からのアプローチもすべて断り、ヨーロッパからのオファーを待った。
 
 ところが、待てども、待てども、声はかからない。それでも不安はなかった。自分なら行けるという、いささか向こう見ずな自信があったからである。
「オファーをくれたクラブの強化の方々にも言われましたよ。『オファーが来なかったらどうするんですか』と。でも、僕は『絶対に見つけます』って」
 
 この時、槙野にはひとつの希望があった。ドルトムントとホッフェンハイムの練習に参加する機会を手にしていたのだ。12月半ば、このチャンスに懸けて、槙野は飛行機に飛び乗った。
 
 ドルトムントではミーティングと軽めの練習に参加するだけだったため、本命はホッフェンハイムだった。2部練習に参加し、紅白戦にも出場した。
 
 だが、全日程を消化した時、初めて不安が込み上げてきた。
 
「あまり力が出せなかったんです。だから、帰りのフライト中、ずっと考えてました。どこも決まらなかったら、どうしよう。俺、本当に職を失うのかって」
 
 焦り始めた槙野に吉報が届いたのは2日後のことだった。ケルンが獲得の希望を伝えてきたのだ。
 
「練習に参加していないクラブだったから驚いたけど、飛び跳ねるほど嬉しかったし、とにかくホッとしましたね」
 
 こうして槙野は窮地から脱した。だが、本当の試練はその先に待っていた。
 
 スタンドはドクロマークのフラッグやシャツで溢れている。荒くれ者の集団として知られるザンクトパウリのサポーターの怒声が響く中、槙野はピッチに立ち尽くしていた。
 
 11年1月29日、ケルンは残留争いのライバル、ザンクトパウリに30本近いシュートを打たれ、0―3で完敗した。
 
 むろん、失点はDFだけの責任ではない。しかし、守備の立て直しを見込んで獲得したCBを起用しての惨敗が、槙野に対する印象を悪くした。