劇団四季は「キング・コング」を舞台化してほしい『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んで

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劇団四季の新作『ノートルダムの鐘』の公開まで半年を切った。
原作はヴィクトル・ユゴーの長篇小説『ノートルダム・ド・パリ』(1831。上巻下巻)。


正確には『ノートルダム・ド・パリ』のディズニーアニメ版『ノートルダムのせむし男』(1996。邦題『ノートルダムの鐘』)の舞台化(2014)の日本版だ。
ちなみにユゴー原作のミュージカル作品と言えば、東宝の『レ・ミゼラブル』が有名ですね。


『レ・ミゼラブル』は19世紀前半を舞台にしていたが、いっぽう『ノートルダム・ド・パリ』は15世紀末を舞台にしたスケールの大きな伝奇ラブロマンス。
美少女あり、悪人あり、下層階級から王さままで、あらゆる社会階層の登場人物を配し、恋、暴動、オカルトなど、濃いめのイヴェントを劇画タッチで盛り合わせた一大スペクタクルは、その祝祭性もあって、バレエ、映画、アニメーション、TVドラマ、ミュージカルとメディアミックスを重ね、満都の善男善女の紅涙を絞ってきた。

醜い男の純情な恋


1482年のパリ。
ノートルダム大聖堂は、セーヌ川の中洲・シテ島にあるゴシック様式のカテドラルだ。
その荘厳な建造物の前に捨てられていた醜い赤ん坊は、カジモドと名づけられ、怪物的な容貌の青年に育ち、大聖堂の鐘つきとして働く。

彼を拾った助祭長クロード・フロロは、神に仕える身でありながら、流れ者の踊り子エスメラルダ(16歳)に思いを寄せ、カジモドに彼女を誘拐させる計画を立てるが、カジモドは捕縛されてしまう。

いっぽうエスメラルダは王室の衛兵フェビュス・ド・シャトーベール隊長と恋に落ちるが、フェビュスには婚約者がいた。イケメンだがチャラくて信用ならない男なのだった。

エスメラルダは、広場でさらし者となったカジモドをかばおうとする。
初めて人に親切にされたカジモドは、エスメラルダのことを好きになってしまう。

恋に狂ったフロロはフェビュスを刃物で襲ってしまう。
刺傷事件の濡れ衣を着せられたエスメラルダは、ジプシーだったこともあり、魔女裁判で死刑判決を下された。

煽りの多い小説


エスメラルダはカジモドに奪取され、大聖堂にかくまってもらうけれど、彼の怪奇な容貌に怯える。
折からパリに暴動が発生し、フロロはそのゴタゴタに乗じて大聖堂からエスメラルダを連れ出すが、それが悲劇の連鎖の始まりだった……。
ここからエンディングまではひたすら壮絶な展開が続く。

登場人物たちもひとりひとり過激だが、語り手がまた饒舌で、きわめて自己主張が強い。
展開が盛り上がってくると、講釈師よろしく名調子で、読者に熱っぽく語りかける。読んでいると、顔に語り手の唾が飛んでくる気がする。

この小説は第1編から第11編までで構成されているが、第3編64ページ、第5編第2章29ページの合計93ページは、まるまる全体が語り手の「中世末期パリ論」となっている。
そのあいだストーリーの進行はお預けという形になるが、その第3編がものすごくおもしろい。そういえば司馬遼太郎がこういう語りかたをするんだっけな。

第5編第1章でフロロは、
〈書物が建物を滅ぼすだろう〉
と謎めいたせりふを言う。
続く第5編第2章は、全体がこのせりふへの註釈だといってよい。

語りではこのせりふを、
〈一つの技術がもう一つの技術を追い払おうとしている〉
〈印刷術は建築術を滅ぼすであろう〉
とパラフレーズし、
〈グーテンベルクが現れるまでは、建築は思想を記録するための一番重要で一般的な手段であった〉
と述べて、作中の時代が大きな転換期であることを示している(作中の時間はグーテンベルクの活版印刷術を考案してから約30-40年しか経っていない)。

ここで作者ユゴーは、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』やジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』のような、壮大な人類史的視座から物語を語っている。煽るなー。


『美女と野獣』的な……


モンスター的な見かけの男と美女という組み合わせは、ヴィルヌーヴ夫人の原作(1740)をボーモン夫人が書き直した『美女と野獣』(1756)が有名だ。ユゴーがこれを意識しなかったと思えない。


これも『ノートルダム・ド・パリ』同様、ディズニーによってアニメ化されているし、コクトーによる映画版も有名だ。


ユゴーのあとにはガストン・ルルーが『オペラ座の怪人』(1910)を書いた。ルルーがユゴーを意識しなかったとも思えない。


『美女と野獣』『ノートルダム・ド・パリ』『オペラ座の怪人』はいずれも映画やミュージカルとなり、3つとも劇団四季がやることとなった。
こうなったらもう劇団四季は『キング・コング』をミュージカル化するしかないのではないか。


(千野帽子)