『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(渡邊大門/柏書房)

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「奴隷」と言われイメージする国は、古代ギリシア、アメリカ、ヨーロッパ諸国を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。そこで「日本」を挙げる人は少ない気がする。しかし、日本にも奴隷は存在した。それも一時のことではなく、古代からの日本の歴史を考えると半分以上を、日本にも奴隷として扱われた人たちがいたのだ。

 教科書では奴隷について教えることはほぼなく、ドラマや小説でもあまり描かれることはない。だが奴隷の存在を抜きにして、日本史の本当の姿を語ることができるのだろうか。

『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(渡邊大門/柏書房)は、主に戦国時代〜江戸初期を中心に、日本の人身売買の実態、奴隷に関するルール、商品として拉致された日本人たちの末路などを、豊富な資料から浮き彫りにしている専門書だ。

 日本における奴隷の起源は、2世紀初頭から、その存在を史料的に確認することができる。中国の記録『後漢書東夷伝』『魏志倭人伝』において「生口」(せいこう)と記述されているのが、奴隷の原型ではないかと考えられる。日本においては『日本書紀』に人身売買を行っていた証拠となる記述も遺されている。

 その後も、人身売買は行われ、奴隷身分にいる人々の存在はいつの時代にも存在したが、今回は戦国時代に焦点を当ててみたいと思う。

 戦国時代における合戦は、忠義に厚い武士たちが「弱きを助け、強きを挫く」「早く戦乱の世を終わらせる」ために、とにかくかっこよく戦っているイメージがあるかもしれない。

 だが実際の戦場では、「乱取り」という、「奴隷狩り」が行われていた。甲斐国の戦国大名である武田氏の事例から見てみよう。戦国初期の甲斐国の生活や世相を記録した『妙法寺記』という史料には、武田信虎(信玄の父)の軍勢が他国の「足弱」(あしよわ)百人ばかりを獲っていった、という記述がある。

「足弱」とは、女性や老人、子供のような弱い立場にある人々のことだと考えられている。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、「戦利品」として他国の民を強奪したのだ。このように、戦場において人、物資を奪うことを「乱取り」といい、戦場で得た物は自分の資産にすることができた。人や物資は売ることも可能だったので、戦争に参加することは、経済的に豊かになれるという「うまみ」があったのだ。

「乱取り」は武田氏に限ったことではなく、全国で恒常的に行われていたようだ。伊達政宗が南奥羽で展開した合戦でも、戦場において多くの人が生け捕りにされた。上杉謙信は攻め落とした城の城下を、一時的に「人身売買の市場」として、その戦で生け捕った女、子供を二束三文で売買したという記録も残っている。中世〜近世の戦場において、経済的にプラスになる「乱取り」と合戦は切っても切れない関係であった。武士が命を懸けて戦っていたのは、忠義や武士道といった崇高な理念のためではなく、実益があったからなのだ。

 そんな戦国時代の風潮の中で、人身売買を禁止した武将が存在する。豊臣秀吉だ。秀吉は戦場で生け捕った民たちを元の住んでいた場所に返し、人身売買を行うことを禁止している。

 しかしこれは倫理的な問題からというわけではなく、「重要なことは、百姓などが勝手に移住し、耕作地が荒れることを防ぐ」「人身売買によって、貴重な労働力が移動すること」を危惧した「労働力の問題として重視された」ゆえのことであった。つまり、秀吉に現代の感覚に近い倫理観があったというわけではない。

 秀吉が強い怒りを覚えたのは、南蛮貿易の商品として、日本人がポルトガル人に売られて、家畜のように扱われていることだったそうだ。これに対しては、倫理的な問題を感じたのか、はたまた大切な労働力が海外に流れていくことを危惧したのか、秀吉はポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁止している。

 華々しい合戦の裏で、涙を流す弱い人たちは確かに存在した。現代ほど物が豊かではない時代において、「人」は重要な「商品」だったのだ。名も無き人々の悲劇をひもといていくことも、日本史を追究するにあたって大切なことかもしれない。

文=雨野裾