■金メダルシューズ職人・三村仁司に聞く(1)

 大ヒット半沢直樹シリーズでおなじみの池井戸潤の最新作『陸王』が注目を浴びている。老舗足袋屋が数々の困難に立ち向かいながら、ランニングシューズ製作に挑む物語。こちらはフィクションであるが、自らの工房を立ち上げ、「足袋屋」よろしく、世界に挑み続けているシューズ職人が実在する。過去に数々のメダリストのシューズ製作を手掛けてきた三村仁司氏である。

 1990年代以降、五輪のマラソンでメダルを獲得した日本代表選手は彼のシューズを履いていた。92年バルセロナ五輪銀メダルの森下広一、バルセロナと96年アトランタ五輪で銀と銅を獲得した有森裕子。さらには2000年シドニー五輪優勝の高橋尚子、04年アテネ五輪優勝の野口みずきがそうだ。

 さらに外国勢でも、88年ソウル五輪女子優勝のロサ・モタ(ポルトガル)や92年バルセロナ男子優勝の黄永祚(ファン・ヨンジョ/韓国)、04年アテネ男子優勝のステファノ・バルディーニ(イタリア)のシューズも担当。来月のリオデジャネイロ五輪日本代表も、男女6名中4名が三村氏のシューズを履いてレースに臨む。

 少し三村氏のキャリアを振り返ってみたい。

 シューズ作りを志したのは、陸上の長距離をやっていた高校時代だった。当時のランニングシューズは質が悪いものが多く、すぐ破れたりしてダメになった。素直に「いいシューズを作りたい」という思いで、アシックスの前身であるオニツカへ入社したのだ。

「研究室を志望していたんですが、最初は手作業でシューズを作る製造課に配属されて、製造現場をひと通り経験しました。その間も会社の陸上部に入って走っていたので、余った素材で自分が使うシューズを作って、走ったりもしていました」

 5年ほどして研究室に異動となる。その頃はソールがゴムから他の素材に変わる時期だった。さらに社長がトップ選手のための特注部門を作ることを提案し、その役割を果たす人材として三村が指名されたのだ。

「最初に任されたのが、自分もやっていたマラソンだったのが幸運でした」

 当時のトップ選手は君原健二や寺沢徹、宇佐美彰朗、佐々木精一郎などで、三村からすれば、みな憧れの選手。合宿地などへ出かけて、直接使い心地や問題点などを指摘してもらい、彼らの要望に沿うように靴を作った。

「当時は技術もなかったので、言われるがままにやっていた。特注部門といっても最初は自分ひとりだけの部署で、縫製だけは縫製部門に頼んでやってもらいましたが、アッパー(靴の底を除いた部分)のデザインやパーツの裁断、ソールの張り合わせなどの作業はすべてひとり。1日1足仕上げるのが精一杯でした」

 そんな日々の作業に追われる中で、三村は疑問に感じる部分が出てきた。

「当時のマラソン選手はメチャクチャきつい靴を履いていて、寺沢さんは皮のアッパーでピチピチだったから外反母趾になっていた。それに君原さんは、綿のアッパーの靴で親指のところに最初から穴を開けていたんです。それを不思議に思って聞いたら、走っているうちに足がきつくなるからだと。

 後でわかったことだけど、走り出して15分くらいすると靴の中の温度が上がり始め、45分で最高になる。それで靴の中の足も蒸れて大きくなるんです。そのうえ、綿のアッパーは汗などで濡れると縮むから余計きつくなって、最後はどの選手も腰が引けたような走りになっていたんです」

 それがわかってからは、選手にはサイズの余裕があるシューズを薦めるようになった。寺沢からは後に「あの当時に三村さんが言うような靴を履いていたら、もっと走れたな」と言われたという。

 1978年2月の別府大分毎日マラソンでは、スピードが出やすくなるようにと、スポンジのソールを薄くし、接地面にゴムを使ったシューズを試作。それを履いた宗茂が、世界で2人目のサブ10となる、2時間09分05秒の日本最高記録を出したことも大きな自信になった。

「それからは選手にもソールの薄い靴を薦めるようになり、他より軽くてスピードが出ることをテーマにしました」

 そのシューズが瀬古利彦や宗兄弟などが活躍する日本男子マラソン最強時代を支えただけでなく、海外のトップランナーからも注目されるようになった。

 1984年ロス五輪の2年ほど前からは、フェンシングやボクシングなど他競技のシューズも多く手がけるようになり。レパートリーを広げた。さらにマラソンシューズに関しても、五輪が夏に開催されることで暑さ対策も求められるようになった。

 そのために三村が試みたのは、アッパー素材に当時では画期的だったナイロンを使うことだった。1cm2に1秒間空気を通す通気テストでも、綿は0に近かったが、ナイロンは16.6ccになった。

 その後、88年ソウル五輪ではポリエステルのラッセル素材を使って、通気量をロス五輪時の10倍にする。92年バルセロナ五輪では織り方の違うダブルラッセルを採用して330ccにし、04年アテネ五輪では400ccと、通気量を限界に近いところまでにした。さらに最近では復元能力が高いダブルラッセルの改良版を使っているという。

 そのアッパー素材の変化に加え、ソール素材の開発などでシューズは軽量化。最軽量は88年ソウル五輪で中山竹通が使用した片足100gのものだが、現在は選手個人に合う重量があるとわかり、120〜140gにしている。

「マラソンシューズというのはいろいろなシューズの中でも、一番部品が少なくて構造が簡単なんです。だからこそ難しいですね。選手の個性に合わせて、2時間以上も履いていられるものにしなければいけないから」

 軽量性やクッション性に加え、中敷きの問題や接地面の問題もある。さらに大会ごとに路面の状態や形状、気象条件、その時の選手の体調など、さまざまなものが絡み合ってくる。だがらこそ、その時々で微調整をしながら、生き物といえるようなシューズを作らなければいけないのだ。

 三村には思い出に残っているレースが2つあるという。ひとつは92年バルセロナ五輪。

 女子マラソンの有森裕子が、レースの4日前に踵が痛くて走れないと言ってきた。最終調整地のイギリスで木の根っこを踏み、まともに走ることができず、ジョギングシューズで走るか、棄権するしかないと言い出したのだ。

 そこで本人と2時間ほど話をしたあと、三村はソールをすべてはがしてクッション性のある厚い物にし、インナーソールもバネのある素材に換えた。さらに痛みのある踵の部分には衝撃を緩衝する素材を入れる工夫をした。

「正直ダメだと思っていたから、競技場で36km過ぎに(ワレンティナ・)エゴロワ(ロシア)とトップ争いをする姿が映し出された時はビックリしたし、何かが胸に込み上げてくるような感じでした。2位で競技場に入ってきて、悲壮な顔で最後まで食らいついている姿を見て涙が止まらなかった。自分が銀メダル獲得に貢献できたことより、あの状態で走りきった有森の精神力のすごさに感動していました」

 もうひとつの忘れられないレースが00年のシドニー五輪だ。その前年の世界選手権で、優勝候補だった高橋尚子は左脚付け根の靱帯の痛みが引かず、欠場を決めた。そのとき三村は連日マッサージをしていて、高橋の左右の脚の長さが違うことに気がついた。翌年の4月、五輪代表に決まった高橋の脚を詳しく測定すると、脚の長さが8mm違っていた。

 その矯正のためにと左右のソールの厚さの違うシューズを作り、彼女が合宿しているアメリカのボルダーに持っていき感触を試してもらった。だが、本人からの回答は「違和感があるから、同じ厚さにしてくれ」だった。

「そこでは『しょうがないな』となったが、帰りの飛行機の中でずっと考えて、黙ってやるしかないなという結論を出しました。

 でも、難しかったですね。高橋の場合は接地面のクッションで走るタイプだから、厚さを換えたことがわからないようにクッション性も同じにしなければいけない。だから考えに考えて、構造を変えたんです。それは社長にも言えなかったし、失敗したら責任を取らなければならないと思い、靴を持ってシドニーへ行くときは辞表も用意していました。

 そんな経緯があったから、高橋がスパートして、(リディア・)シモン(ルーマニア)を離したときは心底ホッとしましたね。レース後に厚さが違うことを高橋に話したらビックリしていたが、『マメができませんでした』というから 、『今まではまともな靴を履いてなかったからマメができたんだ』と言ってやりました」

 三村はこう言って微笑んだ。

(つづく)

折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi