美空ひばりはなぜJAZZが上手かったのか?

 隔週刊CDつきマガジン『ジャズ・ヴォーカル・コレクション』第6号、「昭和のジャズ・ヴォーカルvol.1」(7月12日発売・小学館)が売れている。その最大の理由は、日本歌謡曲界を代表する大歌手、美空ひばりのジャズ歌が収録されているからだ。

 没して四半世紀が過ぎるが、いまだひばりを超える歌手は日本に存在しない。数多くのヒット歌謡曲をもつ一方で、ひばりがジャズを好んで歌っていたことはその知名度のわりには知られていない。が、逆に「ジャズ通」の間では彼女のジャズ楽曲における圧倒的な歌唱力、表現力、オリジナリティーは常識である。それは歌謡曲歌手の余芸としてではなく、ワールドクラスのレベルでの話である。

 なぜ美空ひばりは、本場の一流に比肩するレベルでジャズがうまいのか--その考察をする。考えられる理由は、まず「耳」のよさだ。ひばりは1949年(昭和24年)、11歳でメジャー・デビュー。天才少女歌手と呼ばれ、すぐにその才能は日本中が知るところとなったが、早くも15歳のときには初めてジャズのレコーディングを行なっている。その曲は前半を英語、後半を日本語で歌った「上海」。

 当時、英語の理解は深くはなかっただろうが、イントネーションも発音もとても日本の少女歌手とは思えない。もちろんお手本となる演奏があったのだが、そのジャズ的エッセンスまでも完璧に耳から吸収していることは驚異としかいいようがない。しかももっとすごいのは、後半の日本語パートではそこにさらに自分自身の表現が加えられていることだ。

 そしてもうひとつの理由は「ジャズ愛」。ひばりはジャズに特別な感情を持っていた。ひばりは1950年、デビュー前から彼女の才能をいち早く認めたボードビリアンの川田晴久とともに2か月におよぶアメリカ・ツアーを行なっている。川田のギターに合わせてひばりが歌う。いうまでもなく川田はアメリカ音楽に造詣が深く、なんとこのときひばりはすでに「ボタンとリボン」(ダイナ・ショアのカヴァー)を英語で歌っている。

 ツアーはハワイに始まり、アメリカ西海岸へ。ロサンゼルスではテレビ出演のほか、ライオネル・ハンプトンを観たり、ハリウッドの歌手らと会ったという。また日々多くのアメリカの音楽に触れたことだろう。ひばりが師匠と呼んだのは生涯川田だけだったことからも、この少女歌手が川田とのアメリカ・ツアーから受けた影響の大きさがうかがえる。

■ジャズ・ヴォーカリストひばり

 じつは昭和の歌謡曲は、歌手が好きなように歌うものではなかった。歌手は作詞家・作曲家の意図どおりに歌うのが、歌謡曲界のルールだったのだ。ジャズの定番、フェイクやスキャットなど言語道断。いわばジャズとは対極にある、「縛り」の多い世界だった。そこに生きるひばりは、歌謡曲界での地位が固まるほど、ジャズとの違いをはっきりと認識したのではないか。そして自由自在な川田の音楽、アメリカの音楽に大きな影響を受けたひばりにとって、「自由な表現が許される歌=ジャズ」への憧れが強くなったであろうことは想像に難くない。

 ひばりが10代最後に書いた自叙伝には、「好きな曲ならどんなものでも歌う。人の真似はしない。ジャズを歌ったり聴いたりしていると夢がわく」といった記述がある。これはまさにジャズ・ヴォーカリストではないか。

 高い歌唱技術をもち、好きな曲を思ったように自由に歌う。これがいいジャズにならないはずがないのだ。「ひばりジャズ」未体験の方は、『ジャズ・ヴォーカル・コレクション』第6号「昭和のジャズ・ヴォーカルvol.1」をぜひ手にしてほしい。そこには、1965年にナット・キング・コールが亡くなってすぐにひばり作った追悼アルバムからの曲が収録されている。ひばりがほかの歌手にトリビュートしたアルバムはごくわずかしかない。

 しかもジャズ・ヴォーカリストへのアルバムというのだから、これは特別なものなのだ。最高のジャズ愛にあふれた「ひばりジャズ」がそこにある。美空ひばりの本当の凄さが感じられることだろう。

■『ジャズ・ヴォーカル・コレクション』第7号
 「昭和のジャズ・ヴォーカルvol.1」

『ジャズ・ヴォーカル・コレクション』第7号  「昭和のジャズ・ヴォーカルvol.1」

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文/編集部