ギターを櫂(かい)に持ち替えて

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ミュージシャンを目指した20代。ロンドンでの“ある出会い”をキッカケに故郷に戻り、32歳で手こぎ舟を操る道を志す――。長野県、天竜川で活躍する、“遅咲きでロックな船頭”を訪ねた。

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■ PROFILE

職業/天竜舟下り

氏名/曽根原宗夫(52歳)

職歴/20年

長野県在住

■ 船上で客を沸かせるフロントマン

「出航します!」

掛け声を合図に、手こぎ舟がギィと音を立てて川岸を離れる。

30名ほどの乗客から拍手と歓声が沸き上がった。

船上には、櫂(かい)を巧みに操りながら、口笛でトンビを呼び寄せる船頭の姿が。

「こうやってトンビ(トビ)は口笛で呼びますが、カモはどうやって呼ぶでしょう?正解は……“カモ〜ン”!!」

乗客を笑いの渦に引き込んだのが、今回の主役・曽根原さん。

東京やロンドンのライブハウスで腕を鳴らした元ミュージシャン、という異色の船頭だ。

■ ロンドンでの“奇妙な”生活

曽根原さんが船頭になったのは32歳のとき。この業界でも遅い方だ。

それまでは東京でミュージシャンを目指していた。

地元長野県の高校でロックバンドを結成し、卒業後に上京。

ライブハウスでアルバイトをしながら、夢を追い掛ける日々だった。

だが、30歳で訪れたロンドンでの“ある出会い”が、曽根原さんの運命を劇的に変えた。

「憧れのジョン・レノンが育った国の空気に触れたくて、日本で金をためてはロンドンへ行き、観光ビザが切れたら帰国、を繰り返していたんです。そのときも半年ほど滞在する予定で、アパートを借りていたんですが…」

イタリア人の友人が、曽根原さんに驚きの提案をしてきたのだ。

「インドネシアに旅行に行くから、息子を預かってくれって(笑)」

こうして、英語がまったく話せない10歳のイタリア人少年・シモーネとの、奇妙な同居生活が始まった。

「いやあ、大変でしたよ。こっちは子供の扱い方なんて知らないし、最初はまったく会話にならないんですから」

悪戦苦闘しながらも、一緒に食事や観光をして過ごす毎日。それをひと月ほど繰り返すうちに………。

「気が付くと、彼が“たまらなくカワイイ相棒”になっていたんです」

■ 新しい生活

当時、日本で入籍していた奥さんとの間に子供はいなかった。

「僕も嫁さんも自由奔放に生きてきたタイプ。結婚するとき“子供はつくらない”と約束していたんですが、とにかく自分の子供が欲しくなっちゃって。帰国後、『産んでくれたらオレが育てるから!』って嫁さんに頼み込んだんです」

こうして男児を授かった曽根原さん。

だが、子育てを始めると、これまでにはない“迷い”が生まれてきた。

「もっと伸び伸びした環境で子育てした方がいいんじゃないかって」

それは“ミュージシャンとして成功する夢”を諦めることだった。

「でも不思議なもので、わが子のことを思ったら、これまでしがみついてきた夢も、捨てるのは惜しくなかったんです」

曽根原さんは長野へのUターンを決意。そこで出合ったのが船頭という職業だった。

「シモーネと出会っていなかったらUターンすることもなかったし、船頭になることもなかったでしょうね」

■ 新人時代の大失敗

こうして32歳で船頭への道を歩み始めた曽根原さん。

エンジンが付いていない手こぎ舟は、舟の先頭部分で櫂を操る舳乗り(へのり)と、最後尾で櫂を握る艫乗り(とものり)の2人1組で操船する。

川の流れを横切って進むためには、2人が息を合わせ、川の流れより“少しだけ”速く進むことが重要だ。

速過ぎると周囲の景色が楽しめないし、遅過ぎると舵がとりにくい。

そのあんばいが難しく、特にハンドルの役割を果たす船尾の艫乗りは、“10年やって一人前”と言われる、経験がものをいう仕事だ。

「最初は先輩の舟に乗って技術を学ぶんです。でも、僕は自然の中で働きたいと思っていたし、やる気満々だったから」

なんと曽根原さん、舳乗りに必要な心得をわずか1週間で習得したという。

「こりゃあ(自分は)センスあるぞ!なんて思っていたら……」

入社して2カ月。舳乗りとして独り立ちした直後に“大失敗”が待っていた。

■ 船頭が…消えた!?

南アルプスと中央アルプスの間を流れる天竜川は、急峻な地形から“暴れ天竜”とも呼ばれる操船が難しい川だ。

その日、川は前日の雨で増水していた。

「いつものように舟の前で櫂を操っていたら、櫂が水に食われて、そのまま川に投げ出されちゃったんです」

舟の先頭で威勢よく操船していた船頭が川に落ちたものだからたまらない。

乗客からは大きな悲鳴が上がった。

「いやあ、本当に死ぬかと思いました。それでも無我夢中で水をかいて、バッと水面に上がったら……」

少し流された曽根原さんが顔を出したのは舟の真ん中あたり。

びしょぬれのまま舟に上がり、ビックリして声の出ない客を尻目に、曽根原さんは何食わぬ顔で舟の先頭へと戻った。

「その後の30分は死ぬ気で櫂を握りました。そうしてお客さんを降ろしてホッしたら…足が痛くて動けなくなっちゃった。緊張して痛みを感じていなかったけど、ひどい捻挫をしていたんです」

■ ライブハウスが育ててくれた

だが、もともと筋が良かった曽根原さん。

その経験も糧にして、その後は船頭としての腕をグングンと上げていった。

そこにはミュージシャン時代の経験も生かされているという。

ベーシスト兼フロントマンだった曽根原さんは、作曲をしながらバンド全体を見る立場。

ライブでは客の反応を見ながら曲順を変更したり、MCで場を盛り上げるのが得意だった。

「船頭も同じ。お客さんとの掛け合いを楽しみながら、舟が進む先の水の流れや、遠くで葉っぱを揺らす風の流れなどの“全体”が見ることができてこそいい船頭なんです。状況を俯瞰(ふかん)して見るセンスは、ライブでかなり鍛えられたんだと思います」

■ 渓谷を救え!

こうして遅咲きながら、船頭として順調にキャリアを積んできた曽根原さん。

2015年、さらに仕事の幅が広がる出来事があった。

「航路の途中に鵞流峡(がりゅうきょう)という渓谷があるんです。風光明媚(めいび)な名所だったんですが、目を凝らしてみると、伸び放題で荒れた竹林の中にゴミがたくさん見えたんです」

実はこの放置された竹林には、数年前からゴミの不法投棄が目立つようになっていた。

景色を楽しみに来た乗船客にも、地域の人にとっても良くない――

曽根原さんは地主の許可を得て、船頭仲間と共に竹の切り出しに挑んだ。

「でも、想像以上に荒れっぷりがひどかったんです。竹を間引いてゴミを片付けるのは、数人じゃ歯が立たない。だから、先頭に立って市民団体を立ち上げたんです」

こうして多くの人と共に4カ月かけて整備を進めるうち、ゴミの不法投棄も少なくなり、渓谷に明るい光が差すようになった。

「船頭だけじゃとてもムリだった。地域の人たちの温かい協力があってこそ、でしたね」

■ 竹がつなぐ新展開

さらに、この竹林の整備は思わぬ展開を見せる。

「伐採した大量の竹をどうしようかと思案していたんですが…、ひらめいちゃったんです!」

天竜舟下りのルーツである“いかだ流し”の復活。

「この竹でいかだを作って、僕たちのルーツを体験するんだ!って」

試行錯誤の末に完成した竹いかだは、竹と竹の間から水が突き上げる感覚が実に面白かった。

「最初は船頭仲間で楽しんでいたんですが、ウワサが徐々に広がってね。今では月に1回イベントを開いて、多くの人に楽しんでもらっているんです」

そして、この竹がさらに人をつないだ。

「竹いかだは時間が経過すると、竹が割れて浮力が低下するんです。それを解体してどうしようか、と考えていたら…」

曽根原さんは隣村に導入されている“竹ボイラー”の話を聞く。

「竹は普通の木より燃やしたときの熱量が大きいっていうんです」

燃料として利用できるのか!

曽根原さんはすぐ会社に掛け合い、竹ボイラーの導入にこぎつけた。

「今はそれで沸かした湯で、お客さんに足湯を楽しんでもらっているんです」

地域の厄介ものだった放置竹林が、竹いかだになり、そして燃料になる。

水を守るための循環(サイクル)が完成した瞬間だった。

■ 毒を食らわば皿まで

この経験が、船頭としての曽根原さんにも大きく影響した。

「下流域の人たちに、『上流に船頭がいてくれるから、いい水が流れてくるんだ』って思ってもらえるような、そんな活動をしていきたいって思うようになったんです」

座右の銘が「毒を食らわば皿まで」という曽根原さん。

「Uターンで地元に帰ってきて、水の上で生計を立てる船頭になったんだから、地域のこと、水のことまで考えなきゃ。何事も、徹底的にやらなきゃダメだよね!」

乗客を、そして地域をも巻き込むロックな船頭。

“暴れ天竜”を舞台にした曽根原さんのステージは、まだまだ続いていきそうだ。

■天竜舟下り株式会社

1966年から、天竜川で舟下りを開始。弁天港から時又港までの約6kmを、手作りの手こぎ舟で下る。カシの木一本から削り出される櫂以外は、全て船頭の手製。溶接をこなす船頭や、船大工の船頭も在籍している。

●住所/長野県飯田市松尾新井7170●電話/0265-24-3345●URL/http://www.gokai-tenryu.com/

【週刊ジョージア】