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 日ソ両軍がノモンハンで軍事衝突し、ドイツのポーランド侵攻から第二次世界大戦が始まった1939年12月12日未明、北海道の猿払沖で外国船が座礁、横倒しになって沈んだ。それはソ連(現ロシア)の貨客船インディギルカ号で、船長を含む生存者は日本の救難船などに救助された。ニコライ・ラプシン船長は漁期を終えてカムチャツカから帰る漁師やその家族を乗せていたが、視界不良と悪天候などで座礁したことと、船内に生存者は居ないことを日本側へ告げ、救助活動はいったん終結した。

 ところが、遺体収容にあたっていた猿払の青年団から、驚くべき報告がよせられた。

 座礁した船の残骸から、生存者が救助を求めているというのだ。

 さっそく救助活動が再開され、切断機で船体に穴を開けるなどして生存者を引き出し、合計28名を救出したのである。また、救助活動の際に船内を目視した救援船の船長は、船長らが救助された後も生存していたであろう犠牲者を多数発見した。なかでも、乳飲み子を抱えた母親の遺体は痛ましく、置き去りとするには忍びなかったため、親子ともども収容したという。

 現代であれば、生存者を置き去りにしつつも自らは救助され、挙句に「船内に生存者は居ない」とまで発言したラプシン船長は単なる注意義務違反にとどまらず、未必の故意による殺人の疑いさえ持たれるのだが(船長は「女性と子供は全員救助されている」とも発言していた)、なぜか疑念を持たれることはなかった。反対に、当時の新聞などは「有能な船長」と賞賛していたが、それは新聞における決まり文句だったのか、あるいは外務省などから提供された情報によるのかはわからない。

 ともあれ、救助された生存者は小樽で治療や手当を受け、ある程度まで体力を回復した段階で帰国の途についた。それは、遭難からわずか11日後の12月23日で、日ソ間の緊張関係があったとはいえ、慌ただしい帰国であった。

 また、遭難者たちにも帰国を歓迎していたとは言いがたい様子があったと伝えられている。遭難者のひとりが「助けられて嬉しいが、帰国したらおそらく処刑される」と漏らしたと、そんな噂さえ流れていたのだ。

(続く)