2014年ブラジルW杯にギリシャ代表監督として臨んだフェルナンド・サントス監督。ユーロ2016を制したポルトガル代表監督は、そのグループリーグの第2戦でザックジャパンと対戦している。退場者を出し10人になりながら、引き分けに持ち込んだことは記憶に新しい。

 代表チームのみならず、ギリシャのクラブチーム(AEKアテネ、パナシナイコス、PAOK)でも彼は、采配を振るった経験がある。

 F・サントス監督に限った話ではない。国外で活躍するポルトガル人監督の話だ。昨季のチャンピオンズリーグに出場した監督は4人。そのうちベンフィカのルイ・ビトーリアを除く3人は海外組(モウリーニョ=チェルシー、ビラスボアス=ゼニト、マルコ・シルバ=オリンピアコス)だ。一昨季はそれらに加え、レオナルド・ジャルディム(モナコ)、パウロ・ソウザ(バーゼル)もいた。ヌーノ・エスピリト・サント(バレンシア→ポルト)、ビクトル・フェレイラ(フェネルバフチェ)、ジョルジェ・ジェズス(スポルティング)など、他にも欧州の上位クラブで監督を務める人物は数多くいる。

 ポルトガル人監督といえば、モウリーニョ。それ以外の監督は、その大きすぎる名前の影に隠れがちだが、いまやポルトガルはよい監督の宝庫と言える。ユーロ2016を前にポルトガルに好印象を示していた僕だが、活きのいい監督が多いことも、それを後押しする要素だった。

 いい監督が多い国はサッカーが強い。活きのいい監督が多い国は勢いがある。ユーロ2016におけるポルトガルの優勝に、僕は必然を感じる。事実この優勝は、F・サントス監督の選手の使い回し術なしに語れないわけで、国としての総合力の勝利といってもいい。

 監督のレベルと選手のレベルは比例する。もっと言えば、メディアの力、ファンの力、協会の力、Jクラブの力等とも深く関係する。いわゆるサッカーを構成する要素は、連鎖しあう関係にある。ひとつだけ突出しているものは本来ない。もし選手の力が突出していたとしても、それ以外が、足を引っ張る要素であるならば、低いレベルで均されることになる。その国のサッカー界のレベル、すなわちサッカー偏差値は、思いのほか上がらない。

 審判の力、解説者の力、実況の力、もっと言えば、選手を取り巻く代理人の力とか、スタジアムの見やすさとか、サッカーを構成する要素は枚挙にいとまがないが、監督の力は中でも大きなウエイトを占める。日本人の監督は、日本人の選手のレベルを押し上げる役を果たしているのか、それとも日本のサッカー偏差値の足を引っ張る側にいるのか。

 日本代表監督を務められそうな日本人監督が見当たらないという時点で、日本人監督は理屈的に、日本人選手に負けていることになる。欧州で活躍する選手は何名かいるが、監督はゼロ。言葉の壁が高そうなのは監督の方だが、ポルトガル人監督が、言葉の壁が高そうなギリシャで活躍する姿を見せられると、言葉の問題も言い訳に聞こえる。

 選手と監督。偉そうなのは監督だ。選手の動きをチェックし、スタメンを決定する。立場的に監督は優位にある。サッカーを構成する要素としても、監督は選手に優位に立っていた方が、丸く収まる。選手のサッカー偏差値が54だとすれば、監督のそれは最低55ないと格好がつかない。代表監督の候補に外国人監督の名前しか挙がらないのは、そうした理由からだ。53の人間が54を指導すれば、54の側から舐められても不思議はない。

「選手のレベルと監督のレベル。高いのは選手。間違いない」とは、現役時代に語った小倉隆史の弁だ。そして彼は、そのことの矛盾についてハッキリ口にしていた。早い話、日本人の監督はもっと勉強する必要があると述べたわけだが、監督になったいまなお、その言葉を覚えているだろうか。彼が監督を務める名古屋グランパスはいま、年間勝ち点16位。降格圏内にいる。不成績をすべて監督のせいにするつもりはない。駒不足甚だしい中、監督を受けてしまった苦労を味わっている最中に見える。監督としての筋は悪くないと思うが、レベル、偏差値となると高い数字は出せない。いまの名古屋の成績を急上昇させようと思えば、選手の偏差値を大きく超える監督でなければ難しい。だが、少なくとも日本人には適任者が見当たらない。95、96年にその監督を務めたベンゲルのような人材は。