稲垣えみ子さん

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 元朝日新聞編集委員で、見事なアフロヘアと超節電生活がさまざまなメディアで反響を呼んだ稲垣えみ子さん。新刊『魂の退社 会社を辞めるということ。』(東洋経済新報社)では、大企業に勤めて「金満ライフ」に興じていた暮らしを卒業した理由や、冷蔵庫もない超節電生活、「50歳、夫なし、子なし、無職」になってはじめて手にした希望を綴り、その“魂の生き方”が注目されている。

 稲垣さんが会社を辞めてはじめて知った「会社社会」の現実、お金に支配されることの不幸、何をやっても不安から逃れられない人の共通点まで、これからの時代を生きるヒント満載のインタビューをお届けする。

――大企業の社員から無職になって、一番違いを感じたことは何でしょうか?

稲垣えみ子さん(以下、稲垣) 会社を辞めたとたん、私という人間は何も変わっていないはずなのに、社会の扱いがまったく違うことに本当にびっくりしちゃって。なんと日本の大人は、「会社員」と「不審者」の2種類に分けられていたんですよ!「あ、私は不審者の群れに転落したんだ」と辞めて初めて知った(笑)。

 何の手続きをするにも「お勤め先は?」と聞かれますし、家を借りるとき も保証人が必要だし、会社を辞めるって即ち信用をなくすこと。つまり日本社会とは「会社社会」なんだと身をもって思い知ったわけです。今さらそんなことに気づいたということ自体、元新聞記者として実に恥ずかしいことですが。

――ということは、会社を辞めて後悔している?

稲垣 いやそれが、後悔は全然ない! いや本当ですってば(笑)。 確かに会社を辞めなければ毎月給料はもらえるし、家は簡単に借りられるし、年金や健康保険も手厚く保障されているし、いいことづくめ。何しろ日本は会社社会なんですから! だからみんな会社を辞めることがすごく怖いんだと思うんです。

 でも実際辞めてみたら、案外なんとかなっている。…いやなんとかなるはずだと(笑)。どうしてこんなに楽天的なのかとよく考えるんですが、会社にいた時は、うまくいかないことがあると「会社が悪い」「上司が悪い」と人のせいにして怒ったり悩んだりしていたのが、今やもう人のせいにできない。それがすごく清々しいんです。人のせいにするとその瞬間は楽なんですが、結局解決しないので終わりがない。それが一切人のせいにできなくなると自分のせいにするしかない。それはネガティブなことではなくて、できることは精一杯努力するという覚悟が決まる。できないことがあれば助けを求めればいい。

 助けを求めるのは恥ずかしいっていう人がいるかもしれないけれど、これがやってみるとそんなもんじゃなかった。人って本当に親切なんですよ。あいつ仕事辞めたらしいって知ると、これまでそんなに付き合いのなかった人たちまでモノを送ってくれたり「うちに泊まっていけ」と言ってくれたりするんです。世の中閉塞感に満ちているなんていうけれど本当にそうなのかなって。人って、隙あらば人に親切にしようとする存在なんじゃないか。で、そういう親切を受けると、今度は自分も人に親切にしようとする。あら私って案外いい人間じゃないかと思ったりする今日この頃です(笑)。

――個人としての「稲垣さん」として人とつながるほうが、充実感がある?

稲垣 人とつながる充実感は、どういう立場であっても変わらないと思うんですね。でも組織を離れて「一人」になってみると、自分を全方向に開くようになる。そうすると、思わぬつながりができるんです。

 会社をやめて半年ですが、近所を自転車で走っていると「おーい」と手を振ったり振られたりする人が既にたくさんできまして、それは常連になったカフェの主人や八百屋さんや豆腐屋さんだったりするんですが、さらにそのお客さんつながりで、一緒に旅行へ行ったり、田植えをさせてもらったり、お店が忙しい時に手伝わせてもらったりする友達もたくさんできた。新聞社にいた時は「新聞記者は名刺一つで誰にでも会える素晴らしい仕事だ」と言われて自分でもそう信じ込んでいたんですが、実は新聞記者を辞めてからの方が明らかに多種多様な人と知り合っている。一体あれはなんだったんだと(笑)。

 で、これってたぶん「一人」になったからだと思うんです。例えば私はよく一人で居酒屋へ行くんですが、そうすると同じように一人で来ているお客さんとはすぐ友達になる。でも同じ居酒屋にいても、二人で来ている人はその二人でずうっと喋っているだけで、それ以上世界は広がらない。それと同じことじゃないか。

――稲垣さんのような生き方に憧れる人もいる一方で、人づきあいが苦手な人は退職して社会で孤立する不安のほうが大きくて、うつになってでも会社にしがみつくケースもあると思います。

稲垣 うーん、そうなんですか。でもうつになっている時点で、そもそも会社での人づきあいもうまくいっているとは言えないんじゃないでしょうか。そう考えると、問題は「人づきあいが得意なのか苦手なのか」ということではない気がします。

 会社に依存するから苦しくなっていくんじゃないか。会社を辞めたら生きていけないと思いつめてしまうから、どんなに嫌なことがあっても精神を病むほど我慢してそこにい続けようとするんじゃないでしょうか。肝心なのは依存から抜け出すことだと思います。「いつでもやめられる自分」を作ることができれば、会社に残っても辞めても、いろんなことが楽しく自由になるんじゃないか。

 じゃあどうすればそういう自分を作れるのか。私は、一番大きいのはお金の問題だと思う。実はほとんどの人が、給料を使えるだけ使って「いい暮らし」をしようとするんですね。だからどんなにたくさんのお金をもらっていても「苦しい」と。給料で生活をめいっぱい拡大しちゃってるから常にお金が足りない。お金に支配されてしまっているんですね。もらった給料を全部使わなくても満足できる暮らしを身につけることができれば、お金の面で会社に依存しなくなるので精神的に自立できます。私自身、会社員時代にお金に縛られない生活を始めてから職場の人間関係や仕事のストレスが本当に少なくなりました。

 会社員であっても「血中無職度」を上げることはできる。会社を辞めていろいろな人と付き合っていると、会社にどっぷり依存している人と、精神的に自立している人の違いがよくわかるようになりました。依存している人は、話をしていてもまるで壁打ちをしているみたい(笑)。マニュアル通りの答えしか返ってこないし、たぶん問題が起きたら真っ先に逃げるだろうなと想像がつくので近づかないようにしています。一方で、精神的に自立している人もちゃんといるんですね。会社員としての務めは果たす。でも自分の理想や志も捨てない。そういう人がもっと増えれば会社も社会ももっと面白くなるのになあと思う。

――お金があればあるだけ使うのは特にバブル世代に多いように思います。最近は、もともと物欲がない若い世代や、極力シンプルな暮らしを好むミニマリストも増えていますが、その現象はどう見ていますか。

稲垣 私みたいなバブル世代から見たら、なんて賢いんだ! と本当に感心します。一方で、バブル世代の人たちも心のどこかでこのままだとマズイと思っているんじゃないでしょうか。「世界でもっとも貧しい大統領」のムヒカさんが注目されたのもその象徴だと思います。

――テレビ、ラジオ、雑誌がこぞって稲垣さんを取り上げたのもその流れだと思います。テレビもエアコンも冷蔵庫もないひとり暮らしの生活が特に注目を集めました。

稲垣 私の場合は、ここまでやったらこうなったよという人体実験として注目されているのかもしれません(笑)。お金がないとみじめになると思っていたけど妙に明るく生きている人もいるんだと。方法論としてこれもアリかもしれないと思ってもらえたら嬉しいです。

取材・文=樺山美夏

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