■短期連載〜消えたハリマヤシューズを探して(3)

 従業員わずか20名の零細足袋業者が、海外の大手メーカーに対抗して新規事業のランニングシューズ開発にチャレンジするという話題の小説『陸王』(池井戸潤・著)──。今から約100年前、同じような心意気で世界の列強に挑んだ日本の長距離ランナーと、彼を支える足袋職人が実在した。

 東京高等師範学校の学生だった金栗四三(かなぐり しそう)は、近所の足袋店「ハリマヤ」の主人・黒坂辛作(くろさか しんさく)に作ってもらった特製マラソン足袋をひっさげて、1912年(明治45年/大正元年)ストックホルムオリンピックのマラソン競技に出場。しかし、調整不足と日射病の影響で金栗は意識朦朧となり、レース中に失踪する大失態を演じてしまう。

 捲土重来を誓った金栗は帰国後、辛作と二人三脚でマラソン足袋の改良に着手する。ゴム底の採用などで耐久性を高めた足袋は1919年(大正8年)、ついに金栗の足に履かれて下関〜東京間1200kmを走破し、その存在を天下に知らしめた。そして「金栗足袋」と名づけられた製品は、金栗以外の長距離ランナーにも履かれ、各地の競技会で目覚ましい結果を残していく......。

■五輪、ボストンで快走する金栗足袋■

 国内の運動会で普及した金栗足袋は、オリンピックの舞台でも大きな成果を見せた。1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックのマラソンでは、金栗足袋を履いた日本代表の山田兼松が4位、津田晴一郎が6位に入賞する。


 さらに1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックでは、日本統治時代の朝鮮出身の孫基禎が金栗足袋を履いて金メダルを獲得。銅メダルも同じく金栗足袋を履いた朝鮮出身の南昇龍が手にした。ストックホルムでの初挑戦から24年、ついにハリマヤの金栗足袋が世界を制したのだ。

 辛作は当時の新聞記者の取材に満面の笑みをたたえてこう答えている。

「私は30年どうすればうまく走れるか研究し、(金栗)先生や選手たちの言うままに作ってきたのですが、お陰でマラソンは足袋にかぎるということになりましたね。外国にはこんな指の股のついたのなんかないでしょうな、ハハハ──」

 この後、時代は第二次世界大戦へと突入し1940年(昭和15年)、1944年(昭和19年)のオリンピックは中止となった。戦後初めて開催された1948年(昭和23年)のロンドンオリンピックには、敗戦国の日本は参加が許されなかった。長く国際舞台から遠ざかり、日本マラソン界は大きく遅れをとってしまったかに見えた。

 ところが、1951年(昭和26年)のボストンマラソンに出場した広島出身の青年・田中茂樹が2時間27分45秒でまさかの優勝。戦後、GHQの占領統治下にあった日本に歓喜をもたらす快挙となる。驚くことに、田中もまたハリマヤの「金栗足袋」を履いていたのだった。

 このとき足先が二股に割れた足袋独特のスタイルが、地元のアメリカ人記者には奇異に見えたらしく「指が2本しかないのか?」「足を見せてみろ」と大騒ぎになった。田中が足袋を脱いでみせると、「なんだ、指が5本あるじゃないか」と、記者たちはホッとした表情になったという。

 こうして誕生から32年の時を経て、あらためて性能の高さを証明してみせた金栗足袋だが、足先の二股割れはキック力を分散させてしまうのではないか、との懸念もあった。そこで辛作は、それまでの足袋型からシューズ型への改良を決断する。かつて足袋の部品であるコハゼをやめたときと同様に、性能向上のためならば金栗足袋で長年築き上げた栄光や歴史も捨てる覚悟だった。

 そして開発されたのが、国産マラソンシューズ第1号ともいうべき「カナグリシューズ」である。

■愛弟子の世界最高記録と、金栗の世界最長記録■

 1953年(昭和28年)、ボストンマラソン。すでに還暦を迎えていた金栗は、自ら才能を見出した愛弟子の山田敬蔵に辛作の作った「カナグリシューズ」を履かせて、ボストンへと乗り込んだ。すると、日本人のなかでも小柄な身長157cmの山田であったが、2時間18分51秒という大会新記録で見事に優勝。これは当時の世界最高をも塗り替える大記録だった。

「山田君ありがとう、山田君ありがとう」

 ゴールで待ち受けた金栗は、まるで自分の仇を取ってくれたかのように喜んだ。大塚でその知らせを受けた辛作は、うれしさのあまりどうしていいかわからず、部屋中を歩きまわりながら「よかったよかった」とポロポロ涙を落としたという。

 ところで、ストックホルムオリンピックで思わぬ失態を演じてしまった金栗は、現役時代、その後のオリンピックで雪辱を果たせたのだろうか。

 1914年(大正3年)に国内の25マイル(約40km)レースで2時間19分20秒3の驚異的な世界最高記録を出した金栗だったが、その2年後のベルリン五輪は第一次世界大戦の影響で中止になってしまった。

 2度目の五輪出場となった1920年(大正9年)のアントワープオリンピックでは、終盤4位まで順位を上げながら、ストックホルムとは逆に低温で脚のけいれんを起こし、無念の16位で終えている。1924年(大正13年)のパリオリンピックにも出場したが、34歳の金栗はすでにマラソンランナーとしてのピークを過ぎており、32km付近で途中棄権となった。

 国内では最強を誇り、金栗を破る者はついに現れなかったが、オリンピックでは思うような結果を得られなかった。金栗は、その名を冠したマラソン足袋の栄光とは対照的に、自身は無冠のまま現役を終えたのだった。

 1967年(昭和42年)、75歳になった金栗のもとに、スウェーデン五輪委員会からストックホルムオリンピック55周年記念式典への招待状が届いた。現地では、林に迷い込んでそのままコースに戻らなかった金栗の公式記録は「棄権」とはなっておらず、レース中に「消えたランナー」として謎めいたまま語られていたのだ。

 金栗を招待するにあたり、スウェーデン五輪委員会はある"舞台"を用意していた。式典に出席した白髪の金栗に、競技場を走れというのだ。仕方なく金栗はコート姿のまま競技場を走り、そのままゴールテープに飛び込んだ。するとそのとき、場内にアナウンスが響き渡った。

「日本の金栗選手、ただいまゴールインしました。タイム、54年と8カ月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピックの全日程を終了いたします」

 心憎い演出に、マイクを向けられた金森の言葉もまた実にウィットに富んでいた。

「長い道のりでした。その間に嫁をめとり、子供6人と孫が10人できました──」

(つづく)

石井孝●文 text by Takashi Ishii