『アステロイド・ツリーの彼方へ (年刊日本SF傑作選) (創元SF文庫)』東京創元社

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 年刊日本SF傑作選の九巻目。2015年に発表された短篇SFのなかから注目作を選んでいる。

 じつは編者のひとり日下三蔵さんが「後記」でふれているように、才能に溢れた書き手が続々とあらわれているというのに、SF短篇を発表する専門の媒体はほとんど壊滅状態にある。なにしろ唯一のSF専門誌〈SFマガジン〉が隔月刊化、しかも長篇連載や企画ものにウェイトをおいた編集方針を取っているのだから事態は深刻だ。しかし、作家側も手をこまねいているばかりではなく、さまざまなチャネルで作品を送りだす試みをおこなっている。すでに面白い成果がいくつか生まれている。

 たとえば、本書に収録された北野勇作「ほぼ百字小説」はTwitterで初出された。その題名のとおり、ほぼ一回のツイートで完結する超掌篇だ。文字数を切りつめ、独特のリズム、想像力が広がる余地、不思議な手ざわりが生まれている。もちろん、この作家ならではの絶妙のセンスがあってこそだ。ちょっとした加減でイナガキタルホっぽくなったり内田百輭ぽくなったり、アルフレッド・ジャリのアナーキーなコントに近づいたり、逆に日常を切りとったスケッチにも見えてきたり。ときにこのエピソードとこのエピソードはつながっているのではないかという読みかたもできて面白い。あるいは『かめくん』をはじめとする北野作品へ通じる通路があるようにも思える。

 坂永雄一「無人の船で発見された手記」と伴名練「なめらかな世界と、その敵」は同人誌〈稀刊 奇想マガジン〉が初出。坂永作品はノアの方舟伝説の異本といった趣向で、独自の神話空間を形成する。大洪水を乗りきるための巨大船のなか、船主とその子らだけが人間で、ほかは獣ばかりが乗っている。語り手はかつては自分を人間と思っていたが、船主によって猿の近縁だと宣された女(というか雌)だ。同種の雄もいて夫婦になっている。獣のなかでつがいでないのは大蛇だけだ。神はこの蛇を滅ぼすつもりだったが、彼の叡智は役立つので一匹だけが枷に縛られ舟に乗せられた。寓話ふうの語りだが、底流にあるのは一筋縄ではいかない逆説だ。不吉な希望というか生命の毒というか。

 伴名作品は、グレッグ・イーガン「ひとりっ子」ばりのスペキュレーションを、軽い語り口の青春小説のフォーマットで展開する。物語の前提となるのは多世界間の随意移動だ。すべての人間が無限に分岐している歴史線をカジュアルに選んで生きている。困難にぶつかったら別世界へシフトすればいい。しかし、語り手のあたし(女子高校生)が久しぶりに再会した幼なじみは、事故によってその能力を喪失していた。つまり、何か失敗したらそれを受け入れるしかない一本道の人生。そんな相手と友情を育むことができるだろうか?

 高井信のショートショート「神々のビリヤード」は、ハガキ一枚に一作を掲載する形態のファンジン(ハガジンと呼ばれる)に発表されたもの。言語遊戯のワンアイデアだが、そのアイデアを巧みにバリエーションつけながら語りきるところはさすがだ。

 このアンソロジーは作品配列にも工夫があって、高井作品を言語テーマの二作、飛浩隆「La poésie sauvage」と円城塔「〈ゲンジの物語〉の作者、〈マツダイラ・サダノブ〉」が挟む。

 飛作品は「自生の夢」(日本SF作家クラブ編『日本SF短篇50 后拏録時にレビューした)と共通の設定で、あらゆる文章が記録された電子的書字空間に野生化した詩が跋扈する。ボルへスを彷彿とさせるメタフィジカルを、バーチャルなフィジカルとして鮮明かつシュールに描いてしまうところが飛浩隆の恐ろしさだ。

 円城作品は言語空間のなかに作者がいて、その作者も含めて文字列置換の対象として処理するとどうなるか----という奇想小説。発想は高井作品に通じるところがあるが、自己言及構造を巧みに構成する手さばきはこの作家ならでは。

 これにつづいて収録されている野粼まど「インタビュウ」も、ある意味、言語テーマSFといる。体裁的にはインタビューそのもので、内容的には異星怪獣を欺くためにインタビューのふりをしつづける二人の男の物語である。くるりと裏返る仕掛けがこらされているところが言語SFとしての面白さだが、何かどう裏返るかは読んでのお楽しみ。

 こうした遊び心のある作品が、この巻ではとくに目立つように思う。林譲治「ある欠陥物件に関する関係者への聞き取り調査」は、建設プロジェクトの不具合を追及する取材陣とそれに応える関係者の会話で、風刺小説のようでありハードSFのようでもある流れだが、最後の最後になって抱腹絶倒のパロディだとわかる。ヤラレタ!

 森見登美彦「聖なる自動販売機の冒険」は、正体不明の自動販売機をめぐって、残業疲れの男(語り手)と隣のビルに勤める酔っ払いOLがやりとりをするのだが、その噛みあわないぐだぐだ感が楽しい。情けなくもちょっと優しい余韻がステキだ。

 2015年はそれぞれ力のこもった傑作短篇を発表している藤井太洋と宮内悠介だが、いくつかの事情(長さ、他の収録作品とのバランス、自身の著作に収録ずみ)もあって、このアンソロジーには軽妙な味わいの小品が採られている。

 藤井太洋「ヴァンテアン」は、人為操作したDNAを素子のように利用した高性能バイオコンピュータを実現したベンチャー企業の物語。世界を席巻した喜びもつかの間で思わぬトラブルに見舞われる。サラダコンピュータというネーミングとイメージが秀逸だ。

 宮内悠介「法則」では、ミステリ読者にはおなじみの「ヴァン・ダインの二十則」がそのまま物理法則になってしまう。主人公はこの法則を逆手にとって完全犯罪を成立させようとするのだが......。ムチャな論理をとことん突きつめ、なんとも皮肉な結末へ導く展開がみごと。

 遊び心が突きぬけているのが高野史緒「小ねずみと童貞と復活した女」だ。初出時(大森望編『NOVA+ 屍者たちの帝国』河出文庫)もこのレビューでとりあげたが、伊藤計劃のアイデアを起爆剤としてドストエフスキー『白痴』を再解釈しながら(そこには批評的鋭さと二次創作の愉悦が混淆している)、さまざまな古典SFと接続させた絢爛のパスティーシュである。

 読み応えという点で随一なのは、上田早夕里「アステロイド・ツリーの彼方へ」だ。中核にあるテーマは人工知能ならぬ人工知性の可能性で、好奇心や能動的な意識を身体性を結びつけている点が非常に説得力がある。しかし小説としての凄さはその先だ。大きな枠組としては研究と倫理の相克が、主人公の感情の動きとしては異質な知性への共感およびそれとうらはらにある畏れや忌避が、プロットのなかで大きく立ちあがっていく。また、ストーリーに直接絡むのではないが、冒頭で描かれるアステロイド・ツリー(微生物の働きによって小惑星上に形成される樹状構造物)のイメージが鮮烈で、作品の静かな背景として流れつづける。

 こちらもイメージのおきかたが巧みな作品。酉島伝法「橡(つるばみ)」はまず冒頭の情景、月世界で幽霊になってしまったひとびとが地球へと飛びたっていくさまが印象的だ。確かな実体を持たぬまま大気圏を落下し、建物の外壁をなす汎生地(ぱんきじ)と呼ばれる集光汎用体に憑依する。独特の用語がまったく説明なく繰りだされ、読者は前後の脈絡からどんなことが起こっているかを推測するしかないが、そこに言いしれぬ寂寥感と憧憬が宿る。

 ベテランでは梶尾真治と菅浩江が登場。おふたりとも安定感が抜群である。

 梶尾真治「たゆたいライトニング」は人気シリーズ《エマノン》の一篇で、地球に生命が誕生して以来の記憶を持ちつづけるヒロインと、未来から不随に時間をさかのぼってくる少女ヒカリとの交流を描いた感動作。壮大なスケールの歴史を背景にしながら、ひとつひとつの情景は小さな時間のかけらであり、だからこそかけがえがない。

 菅浩江「言葉は要らない」は、介護用ロボットの開発に取りくむ研究者とその右腕として寄り添う若い若者の物語だ。このふたりはロボットに表情と感情を持たせるべきかを議論しつづけるが、それは介護の本質に関わる現実的なテーマだろう。やがて、研究者自身が介護が必要な立場となったとき、いままでになかった視野がひらける。

 上遠野浩平もすでにベテランの域だろう。「製造人間は頭が固い」は、外形的にはポストヒューマン・テーマともディストピア・テーマとも言えるが、下敷きになっているのは異形者が暗躍し秘密結社の気配が立ちこめる怪奇小説だ。持病を抱えた息子を合成人間として長生きできるようにしたいと願う夫婦は、その手術がおこなえる人物ウトセラ・ムビョウのもとを訪れる。ムビョウ自身が合成人間の一種である製造人間なのだ。50年代SF風の幕開けだが、そこから先、何段階もギアチェンジし情緒が凍る境地へ到達する。

 マンガが二篇。

 速水螺旋人「ラクーンドッグ・フリート」は、宇宙に待ちうける脅威に対抗するため、人間とタヌキがペアを組む。コードウェイナー・スミス「鼠と竜のゲーム」のタヌキ版というとカッコ良さそうだが、読み味はあくまでほのぼのだ。なぜかタヌキが関西弁。

 ユエミチタカ「となりのヴィーナス」は、謎の転校生というSFマンガの王道。「自分探し」のためこの学校に来た少女(天然系というよりも天体系だ)に、ヘタレ男子が振りまわされる。このふたりをちょっと離れたところから眺めている学級委員長(メガネ女子)がイイかんじです。

 巻末に収録されているのは、恒例の創元SF短編賞受賞作。石川宗生「吉田同名」は、何の前ぶれもなく吉田大輔(保険労務士事務所勤務、三六歳)が二万人に増殖する。家族はパニック、警察や自治体は対策に苦慮し、本人は自分ばかりでウンザリ......と日常的シチュエーションのなかで事態がおかしなほうへころがるさまをテンポ良く描いていく。読者が自分がそうなったらどうだろうとつい想像してしまう。面白いのは、最初のうちはまったく同一人物だった二万人が、わずかな環境要因の違いによって徐々に偏差が出てくるところだ。「自分は他人のはじまり」なんていうとギャグみたいだが、それが驚愕の結末へピタッと結びつく。

(牧眞司)